Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

混成型君主国の代表例-フランスのルイ十二世

君主論』第三章の続きである。混成型君主国としてミラノ公国を併合したフランス国の君主ルイ十二世がやり玉に挙がっている。

 (4) Per queste ragioni Luigi XII re di Francia occupò subito Milano e subito lo perdé; e bastò a torgliene, la prima volta, le forze proprie di Ludovico: perché quegli populi che gli avevano aperte le porte, trovandosi ingannati della opinione loro e di quello futuro bene che si avevano presupposto, non potevano sopportare e fastidii del nuovo principe.

 こうした理由から、フランス王ルイ十二世はすぐにミラノを獲得し、またすぐにそれを失った。最初はルドヴィーコの自前の軍隊を蹴散らすだけで十分だったのに、というのもかの民衆はルイに城門を開いてくれたが、自分たちの意見と良かれと想定した未来が間違いだったと気づくと、新君主の煩わしさに耐えかねたのである。

(5) Bene è vero che, acquistandosi poi la seconda volta, e paesi ribellati si perdono con più difficultà: perché el signore, presa occasione dalla rebellione, è meno respettivo ad assicurarsi con punire e delinquenti, chiarire e suspetti, provedersi nelle parte più debole.

 とはいえ確かなのは、二度目に手に入れたとなると、刃向かった土地を失うことは実に難しくなる。それというのも、主(あるじ)は謀反の機会をとらえて進んで身を守り、首謀者らには刑罰を与え、被疑者をあぶりだし、弱点に備えるものだからである。

そして次の段落が続くのだが、またしても代名詞である。これでどの人称代名詞が何を表しているのか、これは当時のフィレンツェにおけるマキャベリの仲間たちも、現代のイタリア語を母国語とする人々にもサ-ッと分かるものなのだろうか。

 (6) In modo che, se a fare perdere Milano a Francia bastò la prima volta uno duca Ludovico che rumoreggiassi in su' confini, a farlo dipoi perdere la seconda gli bisognò avere contro tutto il mondo e che gli exerciti sua fussino spenti o fugati di Italia: il che nacque dalle cagioni sopradette.

 それはちょうどフランスにミラノを失わせるのに、最初はルドヴィーコ公一人が国境沿いで騒動を起こせば事足りたが、その後二度目にそれを手放させるには、彼にとって全世界を敵に回し、かつその軍隊が壊滅するとかイタリアから一掃される必要があったが、それが上述の理由から生じたのだった

日本語の下線部「それ」「彼にとって」「その」「それが上述の理由から生じた」に当たる原文内の単語が "lo", "gli", "sua", "il che nacque dalle cagioni sopradette." である。ここはマキャベリの同時代人ルドヴィーコ(Ludovico)やルイ十二世にまつわる史実が、またその関わり合いの顛末が知識として入っていないと、「は?」ということになってしまう。ルイ王は二回ルドヴィーコのミラノを手に入れて、二回とも失ったらしい、その当たりをDottiの注釈、G.Ingleseの注釈、そして昨年手に入れたTreccaniの『マキァヴェッリ事典』で確認しておく必要がある。それにしても最後の「それが上述の理由から生じた」の「上述の理由」って何だろう、どこにその言及があるのか、「一度謀反を起こした土地を再び手に入れると、そこは簡単には失われない」と前の段落で述べていることと素直に繋がってこないのだ。ルイ十二世についてはまた明日(続く)

 

 日を改めて、今日は2月21日(木曜)の昼前、ルイ十二世の続きと行こう。早速『マキァヴェッリ事典』二巻目を除くと、「順境逆境ともに味わったフランス王」とある。イタリック表記なので、これがあだ名なのだろうか。

 ヴァロア家の血を引くオルレアン公だったのだそうだ、先王シャルル八世が早死にしたので急遽1498年4月7日にその跡目を引き継いだ。(細かい日付だな。)フランス皇太子のことはdelfino、ドルフィンというのか。シャルル八世はあの1494年の「チョーク戦争」で覚えていたが、それに従軍している。時代は遡って、ルイ十二世王の若かりし頃は途轍もない土地を正当にも支配下に収めていく強力な封建領主であって、マキャベリのフランス派遣ではこのことが触れられている、とある。(自分で訳出した『フランス事情報告』を参照のこと、とあるが、そうだったかな、記憶にあるのはフランスの厳格な長子相続で領地は長男のもとにどんどん集約されていき、かたや次男以降は軍隊で昇進を重ねることが彼らの栄達になる、とあったと思う。)ブルターニュBretagnaの諸侯とシャルル八世が戦っているのに、彼らと同盟を結ぶなどの背信行為と受け取られる行いもしていたとあるので、事実その戦いの敗北後に捕らえられて3年ほど牢獄にぶち込まれている。(この異端的行為が逆境王の異名の始まりなのか。)

 あとルイ王がヴァレンティーナ・ヴィスコンティの甥っ子に当たることから、母方の相続地ということで、ロンバルディアをつまりミラノ公国を回復するつもりがあったようだ。そしてこのルイ十二世は1499年、野望をもってイタリアに南下してくる。数週間でミラノ公国を制圧、また同様に瞬く間にそれを失った。これが上に挙げた最初のマキャベリからの引用、「フランス王ルイ十二世はすぐにミラノを獲得し、またすぐにそれを失った。」に相当するという訳なのか。(ちなみに、『ローマ史論』第二巻15章にも言及あり、とある。)さて、問題はあの代名詞オンパレードの先に見た引用文である。史実の概略はどうなっているのか。「二度目に手に入れる」とはどういう状況なのか。(つづく)

  ただいま帰宅。さて目先を変えて、Dottiの注釈を追ってみよう。フランス王ルイ十二世の在位は1498年から1515年ミラノ公国に権利要求をつきつけて(つまり上述の母方がヴィスコンティ家と繋がることから生ずる相続権の主張なのであろう)、1499年9月、ヴェネツィアの援助と同盟関係も取りつけてミラノを征服とある。この時のミラノ公がルドヴィーコだが、別名ルドヴィーコ・イル・モーロ、顔色が浅黒いがためムーア人とあだ名されていたルドヴィーコ・マリア・スフォルツァがそれである。しかしフランスの苛政がため、つまりそのあまりの厳しい統治のため、ミラノの人々の不満が爆発、ルドヴィーコ・イル・モーロが1500年2月にはミラノに入城して奪還するものの、またその2か月後にルイ十二世の手に渡ることとなったようだ。(ということは1500年4月だな。)そう確かにルイ十二世は1500年4月にミラノに再入城してその後13年間はその地に留まった、とある。(これが二度目に手に入れるとなかなか奪われない、ということの根拠か。)

 そしてフランスのルイ十二世に最初にミラノを手放させるには、つまり1500年の2月だと、ルドヴィーコ・イル・モーロが身を寄せていたドイツのマクシミリアン一世の宮廷からフランス追討の市民蜂起をミラノで1500年の1から2月にかけて嗾{けし}かければものの見事にそれが成功したのであった。がしかし、1512年には、つまり二度目にミラノがルイ王の手に落ちてからは、約13年の歳月を経て、しかもそのルイ十二世に対して教皇スペイン王、ドイツ皇帝、ヴェネツィア、イギリス国王にスイス人が徒党を組んでようやくミラノからフランスが出ていくこととなった。このあたりの史実がマキャベリの論旨の背景にあるわけである。

 すると代名詞オンパレードと述べた段落は、次のように理解できよう。「それはちょうどフランスにミラノを失わせるのに、最初はルドヴィーコ公一人が国境沿いで騒動を起こせば事足りたが、その後二度目にそれ{ミラノ}を手放させるには、{フランスにとって}全世界を敵に回し、かつかの{フランス}軍隊が壊滅するかイタリアから一掃される必要があったが、それが上述の理由から生じたのだった。」ということになろう。それでも、何度も言うが、「上述の理由から生じた」の上述とはどこを指すのであろう、完全に雲が晴れたとは行かないのである。(『マキァヴェッリ事典』の解説はつづき)