Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

遠隔授業協奏曲(1)

 コロナ禍で延期されていた大学授業も、もうこれ以上は引き延ばせないとの大方の判断で5月20日から始まることとなった。

 今がその準備期間なのだが、今年は例年と大きく異なり、対面授業は無しですべてが遠隔リモート授業あるいはそれもどきとなる。

 本学はマイクロソフトのTeamsという会議用ソフトを使うことを、それを授業に使うことを決めた。ややこしいだろうな、この使い方で老人たちは苦労すると思っていたのだが、その前にそもそも大学の教務システムポータルサイトとかいうやつの使い勝手がとんとわからなくなってしまった。マニュアルどおりに授業課題を指定して添付するわが授業のシラバス・ファイルもアップしたぞ、それとこれだけでは学生に伝わらないと解説にあるから授業連絡でアップした旨も100字だったか200字だったか、これもきちんと踏まえたぞ、しかし本日複数の学生から電話あるいはラインで問い合わせがきた、彼らが言うには添付資料が教務サイトでは見当たりません、と。どうなっとるんだ、こういうITもどきのシステムに弱いと自分に先入観があるものだから、どこかで自分の間違いではないかとひどく自分を疑うのだが、いや添付ファイルはちゃんと載せている、それと別件で、つまり別のFYSの授業準備を補佐してくれるTeamsの中のチームの投稿を覗いていたら、掲載資料がAndroidではそもそも写らない、ということが書いてあったことを思い出す。脈絡がないが、辻褄もなにもないが、IT技術とか自分のまわりのものはせいぜいこの程度のものなのだ、つまり「こんなこともいとも簡単に機械が仕上げてくれる」とかなんとか言っておきながら、見せたい共有したい文書類、資料類が使っているスマホが違うと、iPhone, Androidの違いだけでうまくどうも受け取れないようなのだ、おかしい、こんなことで何で時間を喰わなくてはならないのか、おかしい、こんなことでなぜ人間の方が振り回されなければならないのだろう、おかしい、だから機械と付き合うときは徹底的に遊びごごろ、遊び感覚で立ちのぞむのがよいのだろう、こんなことで焦るのは馬鹿げている、だめなら何がつまづきのもとか学生と話し合いながら、それこそ毎日をどうしたものかと試行錯誤で過ごしていくことそのもののなかに、ともに愉しみを見つけていけるようにこちらも振る舞うのがよかろう。

★今日の疑問その一、教務システムポータルサイトでは講義・授業資料が全員に行き渡らない、なぜだ!

予告、次の記事はまだ未定

 前回からまたしてもひと月近くは経過しているだろうか。世の中は新型肺炎を引き起こすコロナウイルスで持ちきりだ、ずーっと聴いていると見ていると腹立たしい、速報が何とウイルス感染者の人数で、どこそこの県で何人とか、自分の行動範囲も思考範囲もせばまるので良くないナァ。

 さてもう暫らくしてから次の記事を書くとしよう、今日はこれでおしまい、Ciao!

もう2020年の1月が過ぎようとしている

 結局、年末の「マキアヴェッリセミナ」(於:Palazzo Strozzi)に参加して帰国し、慌ただしく年の瀬を駆け抜けたと思っていたら、はや新年1月末だ。この間、書き溜めた適当なものがないから、マキアヴェッリの『君主論』の最後の方の訳出からコピペをして何かやっている雰囲気を醸し出そう。

 

XIX

De contemptu et odio fugiendo.

侮蔑と憎しみをどう避けるべきか

 

(1) Ma perché, circa le qualità di che di sopra si fa menzione, io ho parlato delle più importanti, l'altre voglio discorrere brevemente sotto queste generalità: che el principe pensi, come im parte di sopra è detto, di fuggire quelle cose che lo faccino odioso e contennendo; e qualunque volta egli fuggirà questo, arà adempiuto le parti sua e non troverrà nelle altre infamie periculo alcuno.

さて上で言及したもろもろの性質についてだが、もっとも重要なものは話したから、その他は以下にざっくりと手短に述べたいと思う。すなわち前にも少しく触れたように、君主は憎まれたり蔑まれたりすることは避けるよう注意すべきであり、こうしたことを避けるならいつでも自分の仕事を果たすことになり、他の汚名にまみれようと何ら危険な目には遭わないだろう。

(2) Odioso soprattutto lo fa, come io dissi, essere rapace et usurpatore della roba e delle donne de' subditi: da che si debba astenere.

 とくに憎まれるのは、前にも述べたように、臣民の持ち物を奪ったり婦女子に手を出すことで、これは慎まねばならない。

(3) E qualunque volta alle universalità delli uomini non si toglie né onore né roba, vivono contenti: e solo si ha a combattere con la ambizione de' pochi, la quale in molti modi e con facilità si raffrena.

 いつであれ人間とは一般的に名誉と所有物が奪われなければ満足して暮らしていくものだが、ただ少数者の野心とは戦い抜く必要がり、それはやり方次第で簡単に鎮められるものなのだ。

(4) Contennendo lo fa essere tenuto vario, leggieri, efeminato, pusillanime, inresoluto: da che uno principe si de' guardare come da uno scoglio, et ingegnarsi che nelle actioni sua si riconosca grandezza, animosità, gravità, fortezza; e circa a' maneggi privati tra ' subditi volere che la sua sentenza sia inrevocabile; e si mantenga in tale opinione che alcuno non pensi né ad ingannarlo né ' aggirarlo.

 君主が侮られるのは、気が変わりやすく、軽薄で、女々しく、小心者で、決断力がないと思われることだが、こうしたことからは岩礁と同じく注意して避けねばならない。また自分の行動においては、偉大で、威風堂々、重厚で、力強く認められるよう努めねばならない。臣民間の民事案件では、君主の裁定が取り消せないものだと分からせ、彼を欺いたり騙したりなどする者はいない、との評判を保つように。

(5) Quel principe che dà di sé questa opinione è reputato assai, e contro a chi è reputato con difficultà si congiura, con difficultà è assaltato, purché s'intenda che sia excellente e che sia reverito da' sua.

 君主自らについてこう言われるようになると評判がいやが上にも高まり、評判のいい人物に対して陰謀をはかるのは困難で、攻撃されにくくもなり、彼が優秀で皆から尊敬されていると分かっているにしても、である。

(6) Perché uno principe debba avere dua paure: una dentro, per conto de' subditi; l'altra di fuori, per conto de' potentati externi.

 それは君主たるもの二つの怖れを持たなければならないからで、一つは国内の臣民の敵意であって、もう一つは国外の外国有力者の敵意なのである。

(7) Da questa si difende con le buone arme e con li buoni amici: e sempre, se arà buone arme, arà buoni amici.

 国外のものから身を守るには良き軍隊と良き盟友を持つことで、常にだが、良き軍隊を持てば良き盟友を持つことになろう。

(8) E sempre staranno ferme le cose di dentro, quando stieno ferme quelle di fuora, se già le non fussino perturbate da una congiura: e quando pure quelle di fuora movessino, s'egli è ordinato e vissuto come ho detto, quando egli non si abbandoni, sosterrà sempre ogni impeto, come io dixi che fece Nabide spartano.

 またいつでも国内の諸事情は、国外のが安定しているならば、これまでに陰謀による動乱が発生したことがないかぎり、落ち着いたものとなろう。本当に国外の事情が動き出した際、君主は私の言ったことを守って生きるならば、さじを投げないかぎり、あらゆる衝撃に常に持ちこたえられよう、私が言及したスパルタのナビデ王のごとくにである。

(9) Ma circa ' subditi, quando le cose di fuora non muovino, si ha a temere che non coniurino secretamente; di che el principe si assicura assai fuggendo lo essere odiato o disprezzato, e tenendosi el populo satisfatto di lui: il che è necessario conseguire, come di sopra a lungo si disse.

 一方、臣民についてだが、国外の諸事情が動かないときには、隠れて陰謀を企てないように気遣う必要がある。この点は君主が十分注意する必要があり、自分が怖れられたり蔑まれたりすることは避け、彼で人民には満足してもらうように、この点はやり遂げねばならず、以前にも長々と述べたことである。

(10) Et uno de' più potenti remedii che abbia uno principe contro alle congiure, è non essere odiato dallo universale: perché sempre chi coniura crede con la morte del principe satisfare al populo, ma quando creda offenderlo non piglia animo a prendere simile partito.

 君主が陰謀に対して持ちうるもっとも強力な対策の一つとは、皆から憎まれないことである。というのもいつでも陰謀を企む者は、その君主の死が人民を満足させるのだと信じ込んでいるわけで、人民を憤慨させるとわかればそのような方策を頑なに選らばないものである。

(11) Perché le difficultà che sono dalla parte de' congiuranti sono infinite, e per experienza si vede molte essere state le congiure e poche avere avuto buono fine.

 なぜなら陰謀を企てている側の困難といったら絶大であって、経験上、陰謀は数が多くてもうまく行ったためしは少ないからである。

(12) Perché chi congiura non può essere solo, né può prendere compagnia se non di quelli che creda esser malcontenti: e subito che a uno malcontento tu hai scoperto lo animo tuo, gli dai materia a contentarsi, perché manifestandoti lui ne può sperare ogni commodità; talmente che, veggendo il guadagno sicuro da questa parte, e dall'altra veggendolo dubio e pieno di periculo, conviene bene .

 それに陰謀をはたらく者が単独であることはありえず、仲間にするのは不満分子と思しき人々以外にはないのである。そこであなたがある不満分子に真意を吐露するや、彼が満足するだけの物を与えることになる、というのも彼は自白することであなたからあらゆる便宜を望むことができるわけで、こうしてこちらからは確実な収入が見込まれ、他方は疑わしく危険に満ちたものとなれば、当然のことながら彼は無二の親友となるか、あるいは信念を貫いて全面的に君主の手強い敵となろう。

(13) E per ridurre la cosa in brevi termini, dico che dalla parte del coniurante non è se non paura, gelosia e sospecto di pena che lo sbigottisce: ma dalla parte del principe è la maestà del principato, le legge, le difese delli amici e dello stato che lo difendono.

 短期間にこの問題を少なくするために言えることは、陰謀を企む側からすれば彼を捉えて離さぬ恐怖や不安や刑罰の存在であり、一方、君主の側からすれば、君主国の尊厳、法制度、それに彼を守ってくれる国や盟友らの援助網にある。

(14) Talmente che, adgiunto a tutte queste cose la benivolenzia populare, è impossibile che alcuno sia sì temerario che congiuri: perché dove, per l'ordinario, uno coniurante ha a temere innanzi alla execuzione del male, in questo caso debbe temere ancora poi, avendo per nimico el populo, seguito lo excesso, né potendo per questo sperare refugio alcuno.

 その上で、これらすべての備えに民衆の好意が加われば、誰かが無茶をしたり陰謀をはたらいたりすることは不可能となる。というのも、普段ただでさえ陰謀家は悪事をはたらく前に恐れをなすものだが、ここでの場合は民衆を敵に回すからなおさら心配が増え、暗殺をしようものなら、同じくどこにも逃げ隠れる場所が望めなくなるわけだ。

(15) Di questa materia se ne potria dare infiniti exempli, ma voglio solo essere contento di uno seguito a' tempi de' padri nostri.

 こうした題材についてはいくつでも事例を挙げられようが、私としてはただわれわれの父祖の時代に起こったことで満足するとしたい。

(16) Messere Annibale Bentivogli, avolo del presente messer Annibale, che era principe di Bologna, sendo da' Canneschi, che gli coniurorno contro, ammazzato, né rimanendo di lui altri che messere Giovanni, quale era in fasce, subito dopo tale omicidio si levò il populo et ammazzò tutti e Canneschi.

 ベンティヴォリオ家のハンニバル{一世}は、現ハンニバル{二世}の先祖であり、ボローニャの領主であったのだが、{ライバルの}カンネスキ家の陰謀によって暗殺され、生き残ったのはわずか産着に包まれていたジョバンニ殿のみながら、この暗殺の直後には市民が蜂起しカンネスキ一族を皆殺しにしてしまった。

(17) Il che nacque dalla benivolenzia populare che la Casa de' Bentivogli aveva in quelli tempi: la quale fu tanta che, non restando di quella alcuno, in Bologna, che potessi, morto Annibale, reggere lo stato, et avendo indizio come in Firenze era uno nato de' Bentivogli, che si teneva fino allora figliuolo di uno fabbro, vennono e Bolognesi per quello in Firenze e gli dettono il governo di quella città; la quale fu governata da lui fino a tanto che messer Giovanni pervenissi in età conveniente al governo.

 これはその時代にベンティヴォリオ家がもっていた市民的人気から生まれた。その人気たるやたいそうなものだったので、その家系の誰もボローニャには居らずハンニバル{一世}死後に都市国家を支えられなかったが、フィレンツェでベンティヴォリオ家の血筋の者が生まれてその頃まで鍛冶屋のせがれとして育てられたことを聞きつけると、その者を求めてボローニャ人らはフィレンツェにやってきて、彼にかの都市{ボローニャ}の統治権を与えたのだった。するとその都市は彼によって治められ、ジョバンニ殿が統治にふさわしい年齢に達するまで続いた。

(18) Concludo pertanto che uno principe debbe tenere delle coniure poco conto, quando il populo gli sia benivolo: ma quando gli sia nimico et abbilo in odio, debba temere d'ogni cosa e di ognuno.

 だから結論を述べると、君主は民衆が好意的であれば陰謀などに考慮をめぐらす必要が少なくて済むし、他方敵対的で君主を憎むようであれば、あらゆる事態と何人をも恐れなければならなくなる。

(19) E gli stati bene ordinati e li principi savi hanno con ogni diligenzia pensato di non disperare e grandi e satisfare al populo e tenerlo contento: perché questa è una delle più importante materie che abbi uno principe.

 制度のよく整った国々や賢明な君主らは、これまであらゆる精魂を傾けて貴族方を失望させず、また民衆は満足させてその状態に留めることをずっと考えてきた。というのもこれが君主の抱えるもっとも重要な案件だからである。

(20) Intra e regni bene ordinati e governati a' tempi nostri è quello di Francia, et in epso si truovono infinite constituzioni buone donde depende la libertà e la sicurtà del re: delle quali la prima è il Parlamento e la sua autorità.

 当代において秩序が整い統治されている王国の中には、フランス王国がある。そこではきわめて多くの制度があって、王の自由と安全の拠り所となっており、その筆頭が高等法院{市民議会?}とその権威である。

(21) Perché quello che ordinò quello regno, conoscendo l'ambizione de' potenti e la insolenzia loro, et iudicando essere loro necessario uno freno in bocca che gli correggessi, - e da l'altra parte conoscendo l'odio dello universale contro a' grandi fondato in su la paura, e volendo assicurargli, - non volle che questa fussi particulare cura del re, per torgli quello carico che potessi avere con li grandi favorendo e populari, e co' populari favorendo e grandi.

 というのもそれがかの王国をまとめ上げており、有力者たちの野心と彼らの尊大さを知っているから、彼らには口頭で矯正するブレーキ役が必要だと判断し、-他方、恐怖からくる民衆の貴族連中に対する憎しみも分かっているので、彼ら{民衆}を守らんがため-、これが王の特殊な関心事となることを望まず、民衆を手なずけながら貴族と付き合い、また貴族を手なずけながら民衆と付き合う責務を王から取り除くこととなった。

(22) E però constituì uno iudice terzo, che fusse quello che sanza carico del re battessi e grandi e favorissi e minori: né poté essere questo ordine migliore né più prudente, né che sia maggiore cagione della sicurtà del re e del regno.

 だから第三の裁定者を制度化し、これが王の負担なく貴族連中を抑え込み、民衆を擁護するためのものであって、王と王国のこれ以上ない安全にとってこの制度にまして見事で賢明なものはない。

(23) Di che si può trarre un altro notabile: che e principi le cose di carico debbono fare subministrare ad altri, quelle di grazia loro medesimi.

 この点については、別の著名なフレーズを引き出すことができる、つまり君主らは厄介事は他の者に処理させる必要があり、恩恵を得る仕事は自分自身で行うべし、である。

(24) E di nuovo concludo che uno principe de' stimare e grandi, ma non si fare odiare dal populo.

 改めて結論付ければ、君主は貴族連中に一目置き、けれども民衆から憎しみをもたれてはならない。

(25) Parrebbe forse a molti, considerato la vita e morte di alcuno imperatore romano, che fussino exempli contrarii a questa mia opinione, trovando alcuno essere vissuto sempre egregiamente e mostro gran virtù d'animo: nondimeno avere perso lo imperio, o vero essere stato morto da' sua che gli hanno congiurato contro.

 おそらく多くの人にとっては、ローマの幾人かの皇帝の生涯とその死を考えると、これまでの私の意見とは真逆の事例ではないかといぶかる向きもあるかもしれない、何人かはつねに立派に生き、魂の偉大な徳を示したにもかかわらず、彼らは帝国を失うか、陰謀をはたらく自国の民衆によって事実死に追いやられた、と。

(26) Volendo pertanto rispondere a queste obiectioni, discorrerò le qualità di alcuni imperatori, mostrando le cagioni della loro ruina non disforme da quello che da me si è addutto; e parte metterò in considerazione quelle cose che sono notabili a chi legge le actioni di quelli tempi.

 だからこうした反論に答えるには、幾人かの皇帝たちの資質を申し上げたいと思うし、彼らの破滅の原因が私の導き出したことと相反しないことを示しつつ、そうした時代が求める行動を読み知る者にとっては明らかなことを考慮に入れてみたいと思う。

 (27) E voglio mi basti pigliare tutti quelli imperatori che succederno allo imperio da Marco filosofo a Maximino, li quali furono: Marco, Commodo suo figliuolo, Pertinace, Iuliano, Severo, Antonino Caracalla suo figliuolo, Macrino, Eliogabal, Alexandro e Maximino.

 私としては哲学者のマルコスからマクシミヌスまで、帝位を継承した皇帝たちをすべて取り上げれば十分ではないかと思うが、彼らとはマルコス、その息子のコモドス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルス、その息子のアントニウス・カラカラ、マクリヌス、エリオガバル、アレクサンドロスにマクシミヌスである。

(28) Et è prima da notare che, dove nelli altri principati si ha solo a contendere con la ambizione de' grandi et insolenzia de' populi, gl'imperatori romani avevano una terza difficultà, di avere a.ssopportare la crudeltà et avarizia de' soldati.

 そして気をつけるべき第一の点は、他の君主国なら貴族の野心と民衆の無礼さと戦うだけで済むわけだが、ローマの皇帝たちは第三の困難というべき、つまり兵士らの残酷さと貪欲ぶりに対応せねばならないわけである。

(29) La quale cosa era sì difficile che la fu cagione della ruina di molti, sendo difficile satisfare a' soldati et a' populi; perché e populi amavano la quiete, e per questo e principi modesti erano loro grati, e li soldati amavano el principe di animo militare e che fussi crudele, insolente e rapace: le quali cose volevano che lui exercitassi ne' populi, per potere avere duplicato stipendio e sfogare la loro avarizia e crudeltà.

 そういったことは実に難しく、多くの皇帝らの破滅の原因となったわけで、兵士と民衆を満足させるのは困難なのだ。というのも、民衆は平穏を愛するもので、だから穏健な君主が彼らに喜ばれてきたのであり、兵士らは軍人魂の冷酷で横柄で獰猛な君主を愛したから、そうなると君主は民衆を向こうにまわして兵士らの給料を倍増し、彼らの貪欲さと冷酷さにはけ口を与えることができねばならなかった。

(30) Le quali cose feciono che quelli imperatori che per natura o per arte non avevano una gran reputazione, tale che con quella e' tenessino l'uno e l'altro in freno, sempre ruinavano.

 このようなことがもたらしたのは、生まれつきにも後天的にも大評判を博せなかった皇帝たちだが、その評判で一方も他方も{兵士も民衆も}抑え込むものなのに、彼らは常に破滅していった。

(31) E li più di loro, maxime di quegli che come uomini nuovi venivono al principato, conosciuta la difficultà di questi dua diversi umori, si volgevano a satisfare a' soldati, stimando poco lo iniuriare el populo.

 そして彼ら多くが、新君主として君位についた者のほとんどが、こういった二つの異なる気質同士の難しさに気づいて、兵士たちを満足させる方に向かい、民衆を傷つけることには少しの配慮しか示さなくなるのである。

(32) Il quale partito era necessario: perché, non potendo e principi mancare di non essere odiati da qualcuno, si debbono sforzare prima di non essere odiati dalle università, e quando non possono conseguire questo, debbono fuggire con ogni industria l'odio di quelle università che sono più potente.

 この方針だが不可欠なことではあった、というのも君主が誰かに憎まれずに済むなどあり得ない場合、まずは大勢から憎まれないよう努める必要があり、これが果たせぬとなれば、何が何でもより有力な勢力の憎しみを避けなければならないからである。

 (33) E però quelli imperatori che per novità avevano bisogno di favori extraordinarii, si aderivano a' soldati più tosto che a' populi: il che tornava nondimeno loro utile, o no, secondo che quel principe si sapeva mantenere reputato con epso loro.

 だから人民が新しいため並外れた支援を必要としたかの皇帝たちは、民衆よりも兵士たちを支援する側についた。しかしながらそれが彼ら{皇帝ら}にとって有益となるかそうでないかは、当の君主が彼ら{兵士たち}を使って評判を維持できるかにかかっていた。

 (34) Da queste cagioni sopraddette nacque che Marco, Pertinace et Alexandro, sendo tutti di modesta vita, amatori della iustizia, inimici della crudeltà, umani, benigni, ebbono tutti, da Marco in fuora, tristo fine.

 これまで述べたこうした理由から、マルクス、ペルティナクス、アレクサンドロスらはみな中庸の生活を送り、正義の愛護者で冷酷さに敵対し、人間味豊かで慈悲に溢れていたが、マルクスを除いて悲愴な最期をとげた。

(35) Marco solo visse e morì onoratissimo, perché lui successe allo imperio iure hereditario e non aveva a riconoscere quello né da' soldati né da' populi; dipoi, essendo accompagnato da molte virtù che lo facevano venerando, tenne sempre, mentre che visse, l'uno e l'altro ordine intra e termini suoi, e non fu mai odiato né disprezzato.

 マルクスのみが生き延び、名誉に包まれて死んだ、というのも彼は相続法により帝国を引き継いだのであり、兵士からも人民からも承認を得る必要がなかった。それに敬われるにふさわしい多くの美徳を身につけており、生前中は常にその{兵士や人民の}どちらをも自らの権限内でまとめ上げ、憎まれることも軽蔑されることもなかった。

(36) Ma Pertinace, creato imperatore contro alla voglia de' soldati, li quali essendo usi a vivere licenziosamente sotto Commodo non poterno sopportare quella vita onesta alla quale Pertinace gli voleva ridurre, onde avendosi creato odio et a questo odio aggiunto el disprezzo sendo vecchio, ruinò ne primi principii della sua administrazione.

 しかしペルティナクスといえば、兵士の望みに反して打ち立てられた皇帝であって、その兵士たちはコモドゥス治下で好き勝手に生きるのに慣れていたから、ペルティナクスがもたらしたあの正直な生活に耐えられず、そこで憎しみが芽生え出しさらにそこに彼が老齢であるがゆえの軽蔑が加わって、彼は自らの施政の最初のところで滅んでしまった。

(37) E qui si debba notare che l'odio si acquista così mediante le buone opere, come le triste: e però, come io dixi di sopra, uno principe volendo mantenere lo stato è spesso sforzato a non essere buono.

 ここで肝に銘じておくべきは、憎しみは邪悪なおこないと同様に良い行いを通じても生まれてしまうということだ。だから、私が前にも述べたように、ある君主が国{スタート}を維持しようと望むなら、しばしば良くないようになることも強いられる。

(38) Perché, quando quella università, o populi o soldati o grandi che si sieno, della qual tu iudichi avere, per mantenerti, più bisogno è corrotta, ti conviene seguire l'umore suo per satisfarle: et allora le buone opere ti sono nimiche.

というのも、かの社会層つまり民衆であれ兵士であれ貴族であれ、あなたが自らを維持するのにその支援が必要と思われる集団が腐敗している場合は、彼らを満足させるためにその気質に従うのがふさわしいのであって、良いおこないだけでは彼らはあなたから離れてしまう。

(39) Ma vegnamo ad Alexandro: il quale fu di tanta bontà che, intra le altre laude che gli sono attribuite, è questa, che in 14 anni che tenne lo 'mperio non fu mai morto da lui alcuno iniudicato: nondimanco, essendo tenuto efeminato et uomo che si lasciassi governare alla madre, e per questo venuto in disprezzo, conspirò in lui l'exercito et ammazzollo.

ところでアレクサンデルに話をもどそう。彼は多くの善意に溢れ、彼に帰せられる称賛の中でも、帝国を維持した14年間に正規の裁判手続きのないまま彼によって誰も死に追いやられたことなどなかったというのがそれだが、しかしながら女性的な性格で母君に統治を任せっきりの男と目されると、これがために軽蔑されるようになり、軍隊は彼に陰謀を働いてその彼を殺してしまった。

(40) Discorrendo ora per opposito le qualità di Commodo, di Severo, di Antonino Caracalla e Maximino, gli troverrete crudelissimi e rapacissimi: li quali, per satisfare a' soldati, non perdonorno ad alcuna qualità d'iniuria che ne' populi si potessi commettere.

では反対にコモドゥス、セウェルス、アントニヌス・カラカラ、マクシミヌスの性質に言及すれば、彼らにはこの上ない残酷さと獰猛ぶりが見て取れるだろう。彼らは兵士らを満足させるために、民衆に対して犯し得る侮辱の数々から手をひくことはなかった。

(41) E tutti excepto Severo ebbono tristo fine; perché in Severo fu tanta virtù che, mantenendosi e soldati amici, ancora che e populi fussino da.llui gravati, poté sempre regnare felicemente: perché quelle sua virtù lo facevano nel conspetto de' soldati e delli populi sì mirabile che questi rimanevano quodammodo stupidi et attoniti, e quelli altri reverenti e satisfatti.

そしてセウェルスを除いて皆が哀れな最期を遂げた、というのもセウェルスには多くの胆力が備わっており、兵士を味方につけ、さらに民衆は彼によって抑え込まれており、いつでも容易に統治することができた。それに、彼のあの断行ぶり{美質or軍事力}の数々は兵士や人民を前にして実に素晴らしいものに映り、人民たちはある意味で茫然自失のままの状態で、一方の兵士らは敬意とともに満足そのものだったのである。

(42) E perché le actioni di costui furono grande e notabili in uno principe nuovo, io voglio brevemente mostrare quanto e' seppe bene usare la persona del lione e della volpe, le quali nature io dico di sopra essere necessarie imitare a uno principe.

この男の行動たるや新君主にとっては偉大で注目しておくべきだから、私は彼がどれほどライオンとキツネの人格{仮面}を使い分けることができたのかを手短に示し、また前にも述べたこうした性質は一君主にとって模倣すべきものとなることを示しておきたい。

(43) Conosciuto Severo la ignavia di Iuliano imperadore, persuase al suo exercito, del quale era in Stiavonia capitano, che egli era bene andare a Roma a vendicare la morte di Pertinace, il quale da' soldati pretoriani era suto morto.

セウェルスはユリアヌス皇帝のものぐさぶりを知ると、パノニア地方で指揮をとっていた自らの軍隊を説得して、親衛隊に殺されたペルティナクスの死の復讐をするためとローマに向かわせた。

(44) E sotto questo colore, sanza mostrare di aspirare allo imperio, mosse lo exercito contro a Roma, e fu prima in Italia, che si sapessi la sua partita.

こう装ったまま、帝権への野望はおくびにも出さずに軍隊をローマに向けて動かすと、彼の出立をみなが知るよりも前にイタリアに到着した。 

(45) Arrivato a Roma, fu dal Senato per timore eletto imperatore e morto Iuliano.

ローマに到着すると、元老院は怖れから彼を皇帝に選出し、ユリアヌス帝は処刑となった。

(46) Restava dopo questo principio a Severo dua difficultà, volendosi insignorire di tutto lo stato: l'una in Asia, dove Nigro, capo delli exerciti asiatici, si era fatto chiamare imperatore; e l'altra im Ponente, dove era Albino quale ancora lui aspirava allo imperio.

こうして始まってみると、セウェルスには全領土を支配下におさめるにあたり、二つの困難が残った。一つはアジアで、そこではニグロスがアジア軍の司令官となっており、自らをして皇帝と呼ばせていた。もう一人西方にはアルビヌスがいて、彼もまた帝権を狙っていた。

(47) E perché iudicava periculoso scoprirsi inimico a tutti a dua, deliberò di assaltare Nigro et ingannare Albino: al quale scripse come, sendo stato dal Senato electo imperatore, voleva partecipare quella dignità con lui; e mandogli il titulo di Cesare e per deliberazione del Senato se lo aggiunse conlega: le quali cose furno da Albino acceptate per vere.

そこで彼は自分が敵であることを両人いずれにも明かすのは危険と判断したため、ニグロスを攻撃してアルビヌスは欺くことに決めた。彼{アルビヌス}には書状を送り、元老院から皇帝に選ばれたが、この威厳ある位を彼{アルビヌス}と分け合いたい、カエサルの称号は{元老院に}返上され、元老院の決定によって彼{アルビヌス}が権力側に加わった、と。するとこれらはアルビヌスによって本当のことと受け取られた。

(48) Ma poi che Severo ebbe vinto e morto Nigro e pacate le cose orientali, ritornatosi a Roma, si querelò in Senato come Albino, poco conoscente de' benefizii ricevuti da lui, aveva dolosamente cerco di ammazzarlo: e per questo era necessitato di andare a punire la sua ingratitudine; dipoi lo andò a trovare in Francia e gli tolse lo stato e la vita.

だがセウェルスが勝利してニグロスは亡き者となり東方の情勢が落ち着くと、彼はローマに舞い戻って、元老院でこう訴えた。つまりアルビヌスは自分から受けた恩義を有難がるどころか、非情にも自分を殺そうとまで企てた、だから彼の忘恩を裁くためには征伐に赴く必要があるのだ、と。すると{セウェルスは}彼をフランスの地で見つけ出し、彼の国と命を奪ったのだった。

 (49) E chi examinerà tritamente le actione di costui, lo troverrà uno ferocissimo lione et una astutissima golpe, e vedrà quello temuto e reverito da ciascuno e dalli exerciti non odiato; e non si maraviglierà se lui, uomo nuovo, arà potuto tenere tanto imperio, perché la sua grandissima reputazione lo difese sempre da quello odio che li populi per le sue rapine avevano potuto concipere.

この男の行動を仔細に検討すれば誰でも、彼が獰猛極まりないライオンで実に抜け目のないキツネであることを発見しようし、誰からも恐れられかつ尊敬され、兵士からは憎まれていないのが分かろう。もしも彼が新君主として広大な支配権を維持しえたとしても、驚くには当たらないであろう、というのも彼の途轍もなく偉大な評判のおかげで、彼の略奪行為{重税策}から民衆が憎しみを覚えるようになっても、彼は常に守られたからである。

(50) Ma Antonino suo figliuolo fu ancora lui uomo che aveva parte excellentissime e che lo facevano maraviglioso nel conspetto de' populi e grato a' soldati, perché lui era uomo militare, sopportantissimo d'ogni fatica, disprezzatore d'ogni cibo dilicato e di ogni altra mollizie: la qual cosa lo faceva amare da tutti li exerciti.

また彼の息子であるアントニヌスも実に傑出した性質を備えた人物であり、その点で彼は市民たちに素晴らしく映り、兵士にも好まれた、というのも彼は軍事向きの男で、あらゆる困苦に耐え抜き、どんなご馳走もどんな柔和なことも蔑み、これがため全兵士に愛された。

(51) Nondimanco la sua ferocia e crudeltà fu tanta e sì inaudita, per avere dopo infinite occisioni particulari morto gram parte del populo di Roma e tutto quello di Alexandria, che diventò odiosissimo a tutto il mondo e cominciò ad essere temuto etiam da quelli che lui aveva dintorno: in modo che fu ammazzato da uno centurione in mezzo del suo exercito.

しかしながら彼の獰猛さと残酷さは確かにかなりひどいもので、無数の異常な虐殺からローマの住民の大部分が亡くなり、アレクサンドリアでは全市民が死に絶えたものだから、彼は全世界からこれ以上はないというほど憎まれ、取り巻きの者たちからも恐ろしがられはじめ、行軍中に百人隊長によって殺されてしまった。

(52) Dove è da notare che queste simili morte, le quali seguano per diliberazione di uno animo obstinato, sono da' principi inevitabili, perché ciascuno che non si curi di morire lo può offendere: ma debba bene el principe temerne meno, perché le sono rarissime.

そこで注意しておくべきなのは、これと似たような殺人は誰か心底からの決意あってのことで、それは原則的に避けようがなく、というのも死ぬことをいとわぬ者は誰であれ主(あるじ)を害することができるわけだが、君主はその点恐れるのはほどほどでよかろう、なぜならそんなのは{決心までに至るのは}ごくまれであるからだ。

(53) Debba solo guardarsi di non fare grave ingiuria ad alcuno di coloro di chi si serve e che egli ha dintorno a' servizi del suo principato; come aveva fatto Antonino, il quale aveva morto contumeliosamente uno fratello di quello centurione e lui ogni giorno minacciava, tamen lo teneva a guardia del corpo suo: il che era partito temerario e da ruinarvi, come gl'intervenne.

ただ身の回りに仕えている者たちや自国の警護に当たる幾人かの取り巻きに、酷い侮辱を与えないよう注意することが肝要である。アントニヌスが犯したことだが、彼はあの百人隊長の兄弟を侮辱して死に追いやり、また隊長を毎日のように脅迫し続けたにもかかわらず、その彼を自前の軍隊の警護兵においた。するとそれが、実際に起こったように、恐ろしくも彼{アントニウス}の破滅を招く結果となった。

(54) Ma vegnamo a Commodo, al quale era facilità grande tenere l'imperio per averlo iure hereditario, sendo figliuolo di Marco: e solo gli bastava seguire le vestigie del padre, et a' soldati et a' populi arebbe satisfatto.

さてコモドゥスに話を移そう、彼は相続法によりマルクスの息子ということで帝国を得ているから、それを維持するのはたいそう容易なことだった。彼にとっては、父の残した足跡をたどればそれで十分で、兵士も人民も満足させたはずであった。

(55) Ma essendo di animo crudele e bestiale, per potere usare la sua rapacità ne' populi, si volse ad intrattenere li exerciti e fargli licenziosi: dall'altra parte, non tenendo la sua dignità, discendendo spesso ne' teatri a combattere con li gladiatori e faccendo altre cose vilissime e poco degne della maestà imperiale, diventò contennendo nel conspetto de' soldati.

しかし冷酷で野獣のような男であったから、人民に向けては自らの猛々しさを示せるぞとばかりに、軍隊を使って好き放題にさせた。他方では品位を守らず、しばしば競技場に降りて行ってはグラディエーターと取っ組み合ったり、実に卑しく帝国の威厳にもとるような行為をしでかしたりと、兵士らの心の中で侮蔑の対象となった。

(56) Et essendo odiato da l'una parte e disprezzato dall'altra, fu conspirato in lui e morto.

すると一方からは憎まれ、他方からは軽蔑されて、彼に対する陰謀によって殺されてしまった。

(57) Restaci a narrare le qualità di Maximino. Costui fu uomo bellicosissimo, et essendo gli exerciti infastiditi della mollizie di Alexandro, del quale ho di sopra discorso, morto lui lo elessono allo imperio; il quale non molto tempo possedé, perché due cose lo feciono odioso e contennendo.

われわれにはマクシミヌスの性質について語ることが残っている。この男は実に好戦的な人物で、兵士らはアレクサンドロスの贅沢ぶりにうんざりすると、これは前に述べたところだが、彼{アレクサンドロス}が死ぬやかの男{マクシミヌス}を帝位に押し上げた。が彼は長くは維持しなかった、というのも二つのことが彼をして憎悪と軽蔑の対象とさせたからである。

(58) L'una, essere vilissimo per avere già guardate le pecore in Tracia: la qual cosa era per tutto notissima, il che faceva una grande dedignazione nel conspetto di qualunque.

一つは、彼がかつてトラキアで羊の群れを見張っていたことからくる身分の卑しさで、それはあまねく知れわたっており、誰の胸にも大きな軽蔑を生んだ。

(59) L'altra, perché, avendo nello ingresso del suo principato differito lo andare a Roma et intrare nella possessione della sedia imperiale, aveva dato di sé opinione di crudelissimo, avendo per li suoi prefetti in Roma et in qualunque luogo dello imperio exercitato molte crudeltà.

もう一つは、彼の統治の初期の頃、ローマに赴いて帝国の玉座を継承することを先延ばしにしておきながら、ローマでは廷臣を使い、また帝国のいたるところで何度も残虐な行為に及び、自らを残酷極まりない男と知らしめたからである

(60) Talmente che, commosso tutto il mondo dallo sdegno per la viltà del suo sangue e dall'odio per la paura della sua ferocia, si ribellò prima Africa, dipoi el Senato, con tutto il populo di Roma e tutta la Italia, gli conspirò contro; a che si aggiunse el suo proprio exercito, quale, campeggiando Aquileia e trovando difficultà nella expugnazione, infastidito della crudeltà sua e, per vedergli tanti nimici, temendolo meno, lo ammazzò.

そういうわけで、全世界が、彼の出自の卑しさに対する憤慨と彼の恐るべき獰猛ぶりへの憎悪に突き動かされ、最初にアフリカが反乱し、次に元老院ローマ市民とともに、そして全イタリアが彼に反旗を翻した。これに加わったのが彼自身の軍隊で、アクイレイアの包囲攻略の際、攻略することも難しくそれと彼の残酷さにも嫌気がさしていたところ、多くの敵対者に取り囲まれるにいたり、彼への恐れも少なくなっていたから、彼を殺してしまった。

(61) Io non voglio ragionare né di Eliogabalo né di Macrino né di Iuliano, e quali per essere al tutto contennendi si spensono subito, ma verrò alla conclusione di questo discorso; e dico che li principi de' nostri tempi hanno meno questa difficultà di satisfare extraordinariamente a' soldati ne' governi loro: perché, non obstante che si abbia ad avere a quegli qualche considerazione, tamen si resolve presto per non avere, alcuno di questi principi, exerciti insieme che sieno inveterati con li governi et administrazione delle provincie, come erano gli exerciti dello imperio romano.

私としては、エリオガバルスも、マクリヌスも、ユリアヌスについてももう話すつもりはない、それぞれはまったくもって卑劣な連中だからすぐに消えていった。さてこの話題については結論に向かうとしよう。申し上げたいのは、当代の君主はこういった困難をかかえることが少なくなっている、つまり自身の治世において度を超えて兵士らを満足させなければならん、というわけでもない。なぜなら、彼ら兵士については何かしらの配慮が要るとしても、困難はじきに解決するのであって、幾人かの君主は政府や地方行政と癒着したかつての古代ローマ帝国のような軍隊など持とうとはしないからである。

(62) E però, se allora era necessario satisfare più alli soldati che a' populi, perché e soldati potevano più che e populi, ora è più necessario a tutti e principi, excepto che al Turco et al Soldano, satisfare a' populi che a' soldati, perché e populi possono più di quelli.

とはいえ、当時は人民よりも兵士を満足させることが必要だったとしても、というのも兵士らは人民よりも役立ったからだが、今ではトルコやエジプトを除いて、どの君主にとってもますます必要なのは、兵士ではなく人民を満足させることであり、なぜなら人民は兵士よりも力が優っているからである。

(63) Di che io ne exceptuo el Turco, tenendo quello continuamente insieme intorno a sé XII mila fanti e 15 mila cavagli, da' quali dipende la securtà e fortezza del suo regno: et è necessario che, postposto ogni altro respetto, quel Signore se li mantenga amici.

前の話で私はトルコを除外しているが、この国は引き続き四方を一万二千の歩兵と一万五千の騎兵で固めており、それによってかの王国の強さと安全が保たれている。だから、他の何を措いても、かの王は兵士らを味方につけておく必要がある。

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これ以降がこれからなのである。20章に入れば、運命の25章はすでに何度も日本語にしているから、完成まであと6章とちょっとだ。もう少し!

(64) Similmente el regno del Soldano sendo tutto in nelle mani de' soldati, conviene che ancora lui sanza respetto de' populi se li mantenga amici. (65) Et avete a notare che questo stato del Soldano è disforme a tutti li altri principati, perché egli è simile al pontificato cristiano, il quale non si può chiamare né principato ereditario né principato nuovo: perché non e figliuoli del principe vecchio sono eredi e rimangono signori, ma colui che è eletto a quello grado da quegli che ne hanno autorità; (66) et essendo questo ordine antiquato, non si può chiamare principato nuovo; per che in quello non sono alcune di quelle difficultà che sono ne' nuovi: perché, se bene el principe è nuovo, gli ordini di quello stato sono vecchi et ordinati a riceverlo come se fussi loro signore ereditario.

(67) Ma torniamo alla materia nostra. Dico che qualunque considerrà el soprascripto discorso, vedrà o l'odio o il disprezzo essere suti cagione della ruina di quelli imperatori prenominati; e conoscerà ancora donde nacque che, parte di loro procedendo in uno modo e parte al contrario, in qualunque di quegli uno di loro ebbe felice e gli altri infelice fine. (68) Perché a Pertinace et Alexandro, per essere principi nuovi, fu inutile e dannoso volere imitare Marco, che era nel principato iure hereditario; e similmente a Caracalla, Commodo e Maximino essere stata cosa perniziosa imitare Severo, per non avere avuta tanta virtù che bastassi a seguitare le vestigie sua. (69) Pertanto uno principe nuovo in uno principato nuovo non può imitare le actioni di Marco, né ancora è necessario seguitare quelle di Severo: ma debba pigliare da Severo quelle parte che per fondare el suo stato sono necessarie, e da Marco quelle che sono convenienti e gloriose a conservare uno stato che sia già stabilito e fermo.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イタリア海外研修1212-1217_2019

 

 初日からして想定外だった。フランクフルトに着いて、パスポートコントロールと税関手続きはドイツだからそれなりに時間がかかるとは見積もっていたつもりが、クリスマス時期なのだろうか、パスポートコントロールがなかなか進まない、イライラしてボローニャ便に間に合うか気にして、さらに荷物チェックがめちゃくちゃ並ばされている。いかん、と思ったから一番列の短そうなところに仕切り線を潜り抜けながら入り込んで、何とか通り抜けると、何と出発17時まで15分しかない、Aゲートがまた遠く、いじわるされているのかと思うほどで、走ったねー、急いだねー、ボローニャ便は1Fになっていて駆け込むように機内へ、搭乗が遅いものだから荷物を棚に置くスペースがもうなくて、見渡しても無いものだから、狭い狭い座席に置くと足膝は痛いは何でこんなに苦しい態勢で飛行機に乗らないといかんのか、ともかく1時間ちょいだからと思って、やっとボローニャに着いたというわけである。

 フランクフルトではWhatsAppを使い、Gian Marioに夕方はどこで会えるか、と連絡を入れたところ、ボローニャのマルコーニ空港についてiPhone機内モードをオフにするや返事が入ってきた、今日は無理で明日フィレンツェで、昨日と今日ボローニャで開催されたBorgiaファミリーに関する学会への招待客の世話があるから、とのことだった。あーボローニャの学会はかなり力を入れていたんだな、と気づいたことと、やはり到着初日は予定を入れない方が自分の体にとっても賢明だと改めて思った瞬間であった。

 

12132019

 初日はボローニャからウサギマークのItaloに乗ってフィレンツェ入り、快適だが17分遅れ。雨のため、Rivoliホテルへ先に向かう、そして会場入りがもう10時半を回っていたか。Giulio Ferroni氏の少し前からセミナー参加。前半の部は哲学的テーマ、タイトルは昨今のイタリアの危機。GiulioのあとでGian Marioがinterventoをやっていた。何が争点なのか掴めず、ただ現代の事例でBrexitや移民が話題となり、イギリスのJohnsonが総選挙で勝利しEU離脱を決定づけたことも挙げ、彼も難しい解答のない局面をどうにかしのごうとしているが彼は上から押しつけているわけではなく、あくまでも民意にうごかされているとして、Anselmi先生はたしかpiccolo MachiavelliとJohnson首相を例えたと思うが合っているかな。

 やはりレジュメはなさそうだ、こういう講演と言うか語りかけの発表が古風ながらイタリアにおける伝統なのだろう。次のStefano Visentin氏はあのLuca風のといっても完全にイタリア顔のあのミルフィーユを最後に食べていた先生と思うが、lo spazio della politicaをテーマにしていた、そして今の国際情勢にla soggetta sovranaが入る余地があるかどうか話していたと思う、Carlo Varottiのこともいんようしていたな、このspazioだが空間と言うか場のことだろうが、おそらく私の脳裏にすぐ浮かんだのはforma mentis知の枠組み、Stefanoはla politicita’ spazialeと表現していたか、そして前半のキー概念として「Il Principeはsovranita’を扱ったものではない!」これが通奏低音か。つまり言い換えて見ると、一君主が一人の権力者が困難や転換期に何かを起こせるのではなく、民意や兵士や貴族的な連中の意向に巻き込まれながらもとくに大衆の熱意をそれとして放り出して放縦のままにするよりもその知的で意欲的な調整役として立ち現れているという理解だろうか。そして最後に若いヴェネツィア出身の研究者が登壇した、昼食ではその人の隣に座ったからもう一度名前を聞いたのだが、Gianmarino何とかだったなぁTesserolo?、ギリシアの名前かと聞き返したらいやイタリア、ヴェネト地方の苗字とのこと。そういえば昼、左隣りに座ってくれたもう一人の若手がLorenzo Megina君だったか、ヘーゲル学者の卵だ。

 

昼食はGian Marioの計らいで私もご相伴に預かった、レストランはLa dantescaでSanta maria Novella広場にも入り口がある。

 

12152019

昨日マキアヴェッリセミナーが終わる、が初日の後半を振り返っていないのでまとめておこう。議長役は女性のBassiさん、ルネサンス研究所の評議員メンバーに名前があったな。トップのProf.Asor Rosaは来なかった、朝起きられず風邪気味で、と主催者側で研究所長のCiliberto先生がスマホを出して、Alberto Asor Rosaからの文面を見せていた。どんな方か見たかったが。次の発表者は比較的若かった、Lucio Biasinori、この人が初めてPCによるスライドを使った、普通はこうだがなぁと思うが、多くの方は語りが中心だ。そして次に登壇したのが、Prof.Cacciari、Massimo Cacciariだ、昼食中に分かったのだが、そうかあのアガンベンと交友がある現代の哲学者だ、Lorenzoの説明だと「否定の思想」でCacciariは著名とのこと。弱い思想とかイタリア語で直訳してみたら、それはVattimoだと言っていたな。話題に移ろう、そうマキアヴェッリスピノザの比較だ、民主的とか自由の捉え方の比較だ、私の理解ではこうだった、スピノザはわれわれ人間はontologicamente決まっている、決定論かな、神によって運命が決められている、だから好きにしていい、一方マキアヴェッリnaturaがもともとあるのだが、それをmodificareするのではなく、ordinandoしていく、ここに人間の自由があるとしている、と解説したように思う、あと後半の部のキーワードを連呼していたが、それはcontingente偶発性だ、とつとつとしゃべる語る繰り返しの言葉を述べる、結構長めで後半はつかみにくかった、が終わると6人以上の質問者が出たから、んー大したもんだ。ちなみにCacciari先生は黒髪に近くおかっぱ風の髪形で、あの大同の稲垣先生を彷彿とさせる、本当にfisionomiaは一瞬アジアにもいそうな感じで、私は昔の俳優常田富士雄を思い出した、比較的スリムで、まじめそうだ。そういえば、virtu’にも二区分があると言っていた、conquistaのそれとfar durar lo statoのそれ、あとの質問者にGian Marioもいて何か反論をしていたように思う、雰囲気のみながら、Cacciariのla fortuna観に対して、つまりはわれわれの手の届かない次元の指摘に対して、マキアヴェッリのbipartizione、duplice aspettiは、la Fortunaをもっとimmanenteに捉えているというように受け取ったがどうだろうか。次のProf.Galliはダンテ研究家とのこと、語り口はゆっくりだがこれまた独特の雰囲気があって、ボローニャ大学歴史学科と聞いた、ともかくもマキアヴェッリのeccezioneを述べていて、例えば第7章のestreme malignita’ della fortunaとか第25章の河川の氾濫とか、これがどう繋がるのだろう、Cacciariとやりあっていたなぁ。

 あの午前中の若手Gianmarinoだが、彼のテーマはマキアヴェッリ思想におけるcorruzioneだった、ともかく早口で俗にいう舌が短いのか長いのか音が漏れる喋り方だ。

 Gian MarioにMachivelloの綴りを聞いたら、Machiavellusのラテン的言い方に倣うもの、つまりlatinizzatoと言っていた、Machiavellusのablativo与格だと。

 

さて昨日の最初からだ。9時20分ごろ到着。最初があの若い女性の人、二番目のあの中堅どころの髪が白髪でふさふさした先生のところで、鉄道切符を変えに行く、ところがnot refundableとか言われて、結局Italoを新規購入。途中工具店で鐘を購入。戻ってみると、まだ質疑応答中だった、前半のテーマはreligioneとsettaつまりcristianesimoとsettaと思われる。中堅どころのMarco Geunaは質問に答える形で、religioneはもともとetruschiの発明で、popoloをまとめ上げる機能をもつとのこと、質問者にStoppelli教授が立って手短にdomenicanoとMandragolaの関係を聞いていた、この方もダンテfilologoだそうだ。風邪気味なのか、声がかすれて食事時の会話はよく聞き取れなかったが、愛想よくしてくれた。次の質問者がCutinelliさん、religioneの働きについて、mondo sacroとmondo immanenteを出していたが、toposが聞き取れなかった。次がローマ・サピエンツァのLettieri教授、長い長い、声と抑揚はきれいなのだが、長い話が。「真のprincipeはla pontefice」ってなことを言っておられたように聞こえた、つば広の帽子が印象的。ここで12時半はとうに回っていただろうか、急ぎで今回の世話役のTerracciano氏がこれまた早口でまくしたてると、会場からそんなに急がんでもいいよとの声がかかった。13時半近くになってやっと昼食休憩だ。質疑応答は午後回しらしい。Maurizio Viroliは来なかった!

 

15:30、トップはGian Marioだ、トスカーナのダンテ以来の語り口の伝統に立って、それに加えてマキアヴェッリは政治の分野においてもvocazione narrativaを果たした、と。そこには混乱と喧騒から無秩序へと向かうフィレンツェ社会に誰もがそこに加われる語りを生み出し、マキアヴェッリの倫理も垣間見える。Grande narratoreはla moltitudineの語りを編み出した、そういえばマキアヴェッリのIl Belfagorは秀逸な語りと推していたなぁ。いつもの勢いどおり、初めは緩やかにそして徐々にスピードが上がり語りに著しい抑揚が生まれ、聴衆を引き込んでいる、そしてほどなく終了。CarloMagnoが言っていたとおり、時間通りで手短だ。そして引き続き重鎮Andrea Battistiniだ、開口一番「io non sono machiavellista, ma…」、年譜と作品の密接な関係を、Dionisottiを下敷きにこれまた説得力のあるゆっくりペースで話つぐ感じだ、Gian Marioとはそう対照的、けどうまがあうのかな。一番聞きやすかったし、私は話についていけたような気がする、途中Vicoも出てきて、MachiavelliとVicoの社会のconflittoの押さえ方の比較も意義があるとほのめかし、マキアヴェッリ参照元の一つである、しかし重要なLucrezioのこと、Ciliberto所長の本への言及、ragioneとpazziaの括り方のこと、Vettori宛て書簡の中でたしか150?年、「voltolare i sassi」の指摘、sisico?こう聞こえたが何だろう、イシス?神話の人物のように聞こえるが、そして最後の方でマキアヴェッリの特徴である「agire」の指摘、そういえばVicoのMachiavelliに対する言及はいずれも否定的negativiな中で、conflittoの押さえ方に通底するものがあるという流れだっただろうか。

 その次がF,Bausi氏、そういえば20年ほど前、スイスのローザンヌで見かけた人だ、たしかDiscorsiについて発表していたように思う。ローマ大のサピエンツァかと尋ねたら、違うCosenzaだとのことであった。風貌はまさにジョン・レノ似。今回はマキァヴェッリの書簡についてがテーマだ、Gaetaにも言及していたな、だが内容はそこまでで、ともかくnazionale版が一番いいようなことだったと思う。午後の部の前の昼食時にBausi先生が目の前に座っていたから、3年ほど前に発見されたマキァヴェッリ書簡について尋ねたら、何も新しいものは出ていないとのこと、見つかったのはマキァヴェッリ宛ての書簡で彼自身が書いたものではないとのこと。とつとつとこれまた生真面目そうに報告されていたが、よく聞き取れなかった。時間が押していたので司会の若手が巻きを告げると、いやもう少しだからと自説を続けて述べられていた。だんだん暗くなりはじめる。ここで5分だったか10分だったか休憩。その後はCutinelliさんだが、PCを使ってマキァヴェッリの肖像を映し出して準備を整えていた。さて再開、この時点でGian Marioはボローニャ行き列車に向かう、そのすぐ後でCarloもだ。マキァヴェッリの伝記はRidolfiのものでほぼ確定していたが、どうやら疑わしい事実が明らかになっているようだ。この発表で紹介された新事実は3点、順に話してくれるのだが、二番目、三番目がよくわからない。最初はマキァヴェッリ肖像画だ。何とかSanti作の肖像画が有名だが、その他のもの、テラコッタも含めてスライドで見せてくれたのは昔のFeltrinelli版の表紙に採られたデッサン風の肖像画だが、これがどうもマキァヴェッリとはまったく別人であるらしい。その他のものも見せてくれたが、しかもアラビア語版の肖像画まで、どこまでが偽で何が本当かはしっかりと聞き取れなかった。何やら日本の聖徳太子の話に似ているな。二点目がこれまでマキァヴェッリのテキストの写しだとされていた当の原稿の存在が疑わしいようだ。どのテキストなのか話を追えなかった。三つめが書簡についてだったが、確か150?年かのもの?で、これがどうだと言っていたのか聞き取れなかったし、思い出せもしない。かなり具体的に話を進めてもらったのだろうが、言い回しについていけなかった。そして最後がProf.Stopelli先生、ダンテ研究家でfilologoと聞いたが、次の日そう15日の昼食に連れて行ってもらうBMWの車内で聞いたのは、Stopelli教授ははやpensionatoに入っているが、長年マキァヴェッリ作品のfilologyを研究され、近年はマキァヴェッリ作と判定し得る二つの作品があって、一つが何位だったかな、文学作品関連だったかな、もう一つが、いかん忘れた、なにせ二つ資料が見つかった、と主張されているそうだ、研究者仲間でもその見解には賛成する者と反対する者とがあい半ばするらしいが。短く終わると宣告されたように、かなり端折って話を締めくくられた。時間がだいぶ押していたから。話の切り出しに、マキァヴェッリ作品の中でもBelfagorが秀逸だと言っていた、そうそう順番前のこちら側に座っているときに、私にGian Marioはと聞かれたが、そうLui e’ gia’ partito,と私は答えた。

 大トリのRoberto Espositoはやはり来なかった。今回の主催者代表Ciliberto教授がこの日のまとめと、Esposito教授が来ない来れない理由を説明していたと思うが、これまたよく分らなかった。こうして19:45に閉会となった。

 ともかくも簡単な記録はこれでおしまい。(帰りの飛行機の中で)

 

 

 

 

 

発表を終えて気づいたこと(11/30ヴィーコ発表後)

 忘れぬ前に、発表後に「ああそうか」と気づいたことを列挙しておこう。

 「7章 三種の法制度」のところで、il certoとil veroが出てきたところ。すなわち、Talché le giurisprudenze divina ed eroica si attennero al certo ne' tempi delle nazioni rozzeò l'umana guarda il vero ne' tempi delle medesime illuminate. 神々と英雄的な法体系は粗野な諸民族の時代には確実なもの(il certo)に関係し、人間的な法体系は、知に開かれた{啓蒙された}諸民族の時代には真なるもの(il vero)に関係する、というところ。そうか、verum-certumの思考と、verum-factumの思考の二つがあるのか、つまるところヴィーコが描いて証明してみせようとしているのは、この二つの基軸となる思考なのだ、これをクローチェは神話(il mito)と詩作(la poesia)と言っていて、D.P.ヴェリーンはともに創造的普遍universali fantasticiから導かれるものとヴィーコから読み解こうとするのに対して、クローチェはそこに矛盾を認めて、神話は特殊(il particolare)を求めるのに対して詩作は概念(il concetto)を求めると指摘したということなのではなかろうか。

 端的にまとめよう。三つの時代区分すなわち神々の時代、英雄の時代の思考は実なるもの(il certo)が解となる、私の思いついた訳し方でいけば「il certoは、腑に落ちるもの」なのだ。だから肉体と精神とがまだ未分化な半人間たちの、いうなれば肉体の思考に当たる。一方、人間の時代の思考は真なるもの(il vero)が解となる。理性が自立し事柄の{つまり対象の}原因と結果が論理的に導ける、いうなれば頭脳の思考である。んー、アンダーライン部分の表現が苦しいなぁ、もっとうまい表現がないかと今まさに思い悩むが出てこない。先に進もう、この本文を書きつけて残しておこうと思ったのはそんなことじゃなくて、D.P.Vereneが想像的普遍を重要視するなら、クローチェは第二巻の詩的知恵la sapienza poeticaを重視する、かな?。ヴィーコ自身はこの辺をどう乗り切っているのかは、せっかく読んできたのだが私にはまだよく分からない。

 あとgiurisprudenzeだが、「法賢慮」何のこっちゃ?、と思ってしまう。大岡裁きじゃないが、「手綱さばき」、「頃合い」、「按配」、「手加減」、「沙汰加減」、要するに白黒つけるバランス具合を言うのだろうが、何か適訳はないものか。確かに発表会場で指摘を受けたように、「法体系」や「法制度」では現代に引き付けすぎているだろう。現代なら大学のla Facolta di giurisprudenzaが法学部だ、ここの法律は leggiなので、具体的な法律をそれとして成り立たせる土俵というか環境というかOSというか、そういうものなのだろう、その環境にも三種があるとヴィーコは述べている。

 さらにD.P.Vereneが重視する「想像的普遍」が英語では imaginative universalsだが、イタリア語では4つほどあるとどこかに書いてあったが何だったっけ。今、D.P.VereneのVico's Science of Imginationのp.65に、caratteri poetici, generi fantastici, universali fantasticiが同じような意味で使われているとして、ヴィーコ自身が学の要素Elementsのところで、"poetic characters" や"imaginative genera"を"imaginative universals"と結びつけている、としている。

 クローチェの批判というか論点は何なのだろう、真、善、美、利益の4象限のどこに上記の野獣や英雄たちの思考は位置づけられるのだろう。

 あとAmoroso氏の指摘箇所941のところの、tripartizioneは畢竟bipartizioneという注釈の典拠はA.Battistini氏にあるとのことだったが、その論述箇所はどこなのだろう。すぐ見つかると思ったのに、…(一応、ここまで)

 

Vico発表のまとめ-11月30日2019年に向けて-

 最初に、一番最後の例の口絵を見ておこう。作者名は誰だったっけ。二枚あるのだが、一般的な図柄の方から。左上隅に三角形で囲まれた目があり、そこから光の筋が地球儀の上に乗った形而上学の女性像の胸元に当たり、光はそこで折れ曲がり左下の老人の背後へと消える。この老人が諸民族のホメロスを意味し、そこからオール、文字盤、束で巻かれた斧とサーベル、財嚢、秤にヘルメットと地上に並ぶあの絵のことである。神々の時代、英雄の時代、人間の時代、この三つの時代区分は本書『新しい学』の中で金太郎飴のごとく何度も何度も繰り返されるのだが、これらの時代区分と図像との照合がどうも誤っていたようだ。以前は、単純に最初の天上からの光の筋が神々の時代、こめかみに耳のはえ形而上学像の胸からホメロス像までの光の筋が英雄時代、ホメロス以降が人間の時代と思い込んでいたし、最初の頃の発表ではそう説明もしたはずであるが、どうも違うな、少しズレているように見た方が本文の書きっぷりに合っているような気がする。最初の逆「く」の字の真ん中あたりまでが神的時代、その真ん中からホメロス像を経由して文字盤を過ぎたあたりが英雄時代、そこから地面に置かれたもろもろ、つまり繰り返すと束で巻かれた斧とサーベル、財嚢、秤にヘルメットあたりが人間の時代となろうか。

 さてそう押さえた上で、第四巻の話は何をどのように展開しているのであろうか、これを考えて短くまとめておこう。本巻は第十四章からなる。今回は最終章が未達である。一読後の感想ではこの最終章はさらにそれまでの第一章から第十三章までのさらなるまとめ直しになっていて、ちょうど第四巻の読める要約になっている気がした。それはさておき、取り上げられる題材は、1.自然状態、2.習俗、3.自然法、4.政体(政治共同体)、5.言語、6.文字記号、7.法制度(法賢慮)、8.権威、9.法的道理、10.裁判、11.時代性であり、どの題材にしても上記の三つの時代の変遷が貫徹しており、逆に言うなら三つの時代に応じてここに挙げたどの題材も三つのパターンを有することがくどいほど述べられている。第十二章以降は、とくに古代ローマ史からやはり三つの時代区分が貫徹していることが例証として取り上げられている。(はっきり言えば三つの時代を経めぐることしか述べていない、と読めるので多少つまらない!)

 ではレジュメの最初のページに移ろう。全体は1と2章から成る。1が本文に沿った要旨、2が興味関心を引くテーマで掘り下げられればとの思惑であった。

 本文第一章は、第一巻から第三巻までのこれまた振り返りである。第一巻は本書で扱う学の原理を確立とあるから、単純にあの宗教、婚姻、埋葬のことか。第二巻では詩的知恵sapienza poeticaを通じて、われわれ文明人とは遠く隔たった野獣と英雄たちの思考をたどり(fantagiaと四つの比喩?)、神事と人事の起源を探究・発見した。第三巻は真のホメロスの発見と題され、ホメロス作とされる二大叙事詩オデュッセイア』と『イリアス』がギリシア民族の自然法の二大宝庫であり、ラツィオの民族にとっては「十二表法」がローマの人々にとっての自然法だったことを突き止めた、としている。

 そしていよいよ第四巻となる。「哲学と文献学の光に照らし」、「永遠の理念的な歴史から導かれた公理Degnità」<神の摂理provvedenzaに従いながら、諸国民のたどる過程を示すのが本巻の中身らしい。Filosofico-filologicoとla storia ideale eterna<la provvedenzaはそれぞれどのような相互関係に立っているのであろうか。今思いついたが、神々の時代、英雄時代に分け入るにはfilologiaで、それを現代につまり人間の時代に翻訳・解釈するにはfilosofiaでなければならず、ただしこの三つの時代の過程corsoは神の摂理としてそこからズレもはみだすこともない、というわけなのか。本文915の末尾にもあるとおり、こうした三種のまとまり(おそらく三種に形態)は、「すべては普遍的な統一に導かれ」、これをヴィーコは宗教の統一、精神の統一と言っている。そういえば本書は文明神学とも原理か方法のところで書いてあった気がする。(ここで独白だが、文明神学としてここに対象化できるのであれば、これはもはや文字通りの神学ではなく、神を通じて自らの歴史を展開する精神そのものの学ということにもなるのではなかろうか、つまり奥義は知性(哲学)により紐解かれたのでる、ヴィーコにとっては。)

 

Vicoの発表に向けて-『新しい学』の第四巻-

随分前にはたまたセンターから次の記事の追加を誘うメールが入った。今は職場も忙しいのだが、11月30日に予定されている「ヴィーコ読書会」における発表準備に追われている。明後日はバルセロナ行きを見守らねばならないし、会議も飲み会も多いし、ってなところが現況である。よって、以下にヴィーコに関するこれまでに準備した発表内容を以下に転写するとしよう。

30 novembre 2019

G.B.VicoのLa scienza nuova (1744)読書会

第四巻Del corso che fanno le nazioni(諸国民がたどる過程について)を読む

服部 文彦

(和訳でSYは『世界の名著33』清水・米山訳、Uは『新しい学1』上村訳を示す)

1.La lettura diacronica 通時的読み

(序文)[915]

・第一巻では「学(Scienza)」の諸原理を確立

・第二巻では詩的知恵(la Sapienza poetica)のなかに異教世界の民族のあらゆる神事と人事の起源を探究・発見

・第三巻ではホメロス叙事詩ギリシア民族の自然法の二大宝庫であり、ラツィオの民族にとっては十二表法がその証であることを再発見

よって

・第四巻では哲学と文献学の光に照らして(con tai lumi così di filosofia come di filologia)、すでに示した永遠の理念的な歴史(la storia ideale eterna)をめぐる公理(Degnità) [241-245]に従い、諸国民のたどる。それは変わらぬ一貫性をもって三つの時代区分を跨ぎ、ありとあらゆる習俗を貫いている。三つの時代区分とは、エジプト人

彼らの時代の前にすでに経過したという神々の時代、英雄の時代、人間どもの時代である…こうした時代区分があろうとも、あらゆる習俗は三種の自然状態を通じ原因と結果の絶え間のない首尾一貫性でもって支えられている。この三種の自然状態から三種の習俗が生まれ、この三種の習俗から三種の諸国民の自然法が観察され、そしてこれらの自然法の結果として、三種の政体(Stati civili)もしくは国家共同体(repubbliche)が生み出される。そして、人間社会を形成するに至った人々がお互いすでに述べたこれら三種の重大な事柄 を伝えあうため、三種の言語(lingue)にそれと同じだけの文字(caratteri)が形成される。そして、それら{の事柄}を正当化するため、三種の法制度(giurisprudenze)は三種の裁判の中で三種の権威(autorità)と同じ数だけの道理(altrettante di ragioni in altrettante spezie di giudizi )によって補佐される。そうした法制度(giurisprudenze)は、三つの時代傾向を通じて自らを寿ぎ、それを{その三つの時代傾向を}諸国民が自らの寿命の全過程の中で表明する。

  こうした三種のまとまり(unità)はそれらに続くところの、また本書で列挙されるであろう他の多く{のまとまり}とともに、すべてを普遍的な統一に導く、それは先見の明ある神性の{もたらす}宗教の統一であり、それはまた精神の統一であって、これが諸民族の現世に形を与え生命を吹き込む。こうした事柄をこれまでは散発的に論じてきたので、以下その過程が順を追って明らかとなろう。

I.三種の自然状態

・una natura poetica o sia creatrice, lecito ci sia dire divina; 誌的もしくは創造的自然、こう言ってよければ神的自然 [916]

natura eroica; 英雄的自然 [917]

natura umana, intelligente 人間的、知的自然 [918]

Ⅱ.三種の習俗

・relligione e pietà宗教と憐れみ [919]

・collerici e puntigliosi 激高と偏狭さ [920]

・officiosi 思いやり [921]

Ⅲ.三種の自然法

・divino, …in ragion degli dei 神的、神の理由の下に [922]

・eroico, ovvero della forza 英雄的で力の法 cff. ’l diritto di Achille [923]

・’l diritto umano dettato dalla ragion umana tutta spiegata 人間の法、人間の理性ですべて説明がつく [924]

Ⅳ.三種の政体

・divini, che i greci direbbono ≪teocratici≫ 神がかり,ギリシア人が言う≪神権政治≫[925]

・governi eroici ovvero aristocratici 英雄統治あるいは貴族政体 [926]

・governi umani, …tutti si uguagliano con le leggi 人間的統治,皆が法を通して平等 [927]

Ⅴ.三種の言語

・una lingua divina mentale per atti muti religiosi, o sieno divine cerimonie 沈黙の宗教的所作あるいは宗教的な儀式による神的で精神的な言語 [929]

・per imprese eroiche, con le quali parlano l’armi 英雄的紋章などを使って軍人が話す言語 [930]

・per parlari 分節語、話し言葉 [931]

Ⅵ.三種の文字記号

・divini, che propriamente si dissero ≪geroglifici≫神聖文字、まさに≪象形文字≫ [933]

 E furono certi universali fantastici, dettati naturalmente da quell’innata propietà della

mente umana di dilettarsi dell’uniforme (di che proponemmo una Degnità), lo che non

 potendo fare con l’astrazione per generi, il fecero con la fantasia per ritratti. それは想像的普遍からなるもので、一括りにするのを好む人間精神の生来の特徴からおのずと言表され(この点については公理を挙げておいたが)、それを類による抽象化で為すことができないため、想像力による似たものどうし化でこれを行うのである。[933]

・caratteri eroici, ch’erano pur universali fantastici, a’ quali riducevano le varie spezie delle cose eroiche: 英雄文字、これも想像的普遍であって、そこに様々な英雄的事柄を還元{約分}していく文字記号 [934]

・i volgari caratteri, i quali andarono di compagnia con le lingue volgari通俗文字、通俗言語に伴って発展してきた文字 [935]    cff. 民主政体が君主政体に先行 [936]

Ⅶ.三種の法制度(法体系)giurisprudenze

・una sapienza divina, detta,--- ≪teologia mistica≫, che vuol dire ≪scienza di divini

  parlari≫ o d’intendere i divini misteri della divinazione, e sì fu scienza in divinità d’-

  auspìci e sapienza volgare, della quale furono sappienti i poeti teologi, che furono i primi sappienti del gentilesimo; (法体系の元とは)神的な知恵で、≪神秘神学≫と言われ、神々の語らいの知識あるいは神占の神聖な秘密を理解するのが元となる、卜占官で神と通ずる通俗的な知識{が元}であって、そこでは神学詩人が智者となり、異教徒の最初の智者となる。[938]

cff. … : che Dante direbbe《indiarsi》, cioè entrare nella mente di Dio ダンテが言うであろう≪神{の似姿}となる≫とは、神の知性の中に入り込むこと。(Paradiso, IV, 28)[938]

・la giurisprudenza eroica, di cautelarsi con certe propie parole, qual è la sapienza di Ulisse, il quale, appo Omero, sempre parla sì accorto, che consiegua la propostasi utilità, serbata sempre la propietà delle sue parole. 二つ目が英雄の法体系で、自らの確かな言葉で身を守ることが元となる、ちょうどオデュッセウスの知恵にあたる。ホメロスによると、彼{オデュッセウス}は常に抜け目なく語って発議案件を有利に進め、常に彼の言葉どおりとなった。[939]

・la giurisprudenza umana, che guarda la verità d’essi fatti e piega benignamente la ragiondelle leggi a tutto ciò che richiede l’ugualità delle cause; la qual giurisprudenza si celebra nelle repubbliche libere popolari, e molto più sotto le monarchie, ch’entrambe sono governi umani. 三つめが人間的法体系で、出来事の真実に目を向け、訴訟を平等に扱うため法律の道理を優しく適応していく。その法体系は人民の自由な共和国で栄え、君主国のもとではなおさらで、両者とも人間的な政体だからである。[940]

 Talché le giurisprudenze divina ed eroica si attennero al certo ne’ tempi delle nazioni

rozze; l’umana guarda il vero ne’ tempi delle medesime illuminate. 神的、英雄的な法体系は粗野な諸民族の時代には確実なもの(il certo)に関係し、人間的な法体系は、知に開かれた{啓蒙された}諸民族の時代には真なるもの(il vero)に関係する。[941]

Ⅷ.三種の権威

・divina, per la quale dalla provvedenza non si domanda ragione; 神的な権威で、摂理であるから、そこで理由が問われることはない。[942]

・eroica, riposta tutta nelle solenni formole delle leggi; 英雄的な権威で、すべてが各法律の厳かな字句(le formole)に{荘厳にも文字通りの適用に?}依拠していた。[942]

・umana, riposta nel credito di persone sperimentate, di singolar prudenza nell’agibili e di sublime sapienza nell’intelligibili cose. 人間的な権威で、経験豊富な人物たちの、その際立った思慮と把捉できる訴訟案件に対するその崇高な学識への信用に根拠を置いていた。[942]   ★ cff. [943-46]… a tre sorte d’autorità de’ senati, …

 Ⅸ.三種の(法的)道理

・神的道理と統治or支配の道理(Ragione di Stato))

・divina, di cui Iddio solamente s’intende, e tanto ne sanno gli uomini quanto è stato loro

rivelato: 一つ目は神的な道理で、神だけがそれを理解しており、人間たちは啓示される分だけそれを知ることができる。[948]

・la ragione di Stato, detta da’ romani《civilis aequitas》, …. 二つ目が統治or支配の道理

で、ローマ人のいう≪市民的衡平≫ [949]

(補遺 古代ローマ人の統治or支配の知恵)

 ・Ch’è l’《aequum bonum》, considerato dalla terza spezie di ragione…, la quale si dice《ragione naturale》, e da’ giureconsulti《aequitas naturalis》vien appellata, della quale sola è capace la moltitudine. 三つ目に考えられるのが≪善き衡平≫、すなわち≪自然の道理≫で、法学者たちによって≪自然的衡平≫と呼ばれ、それのみが大衆の与れるところ。[951]

(★第三章 補遺 土台となるローマ法制史)[952-953]

Ⅹ.三種の裁判

・(神的な裁判)

・di giudizi divini, …《implorare deorum fidem》, …《deos obstenari》.… le prime

 orazioni del mondo, come restò a’ latini《oratio》per《accusa》o《difesa》, …Tali richiami agli déi si facevano dapprima dalle genti semplici e rozze, … 一つ目は神的な裁判で、≪神々の信義を懇願する≫、≪神々を証人とする≫というもので、世界で最初の祈祷or演説(オラツィオーネ)であった。ちょうどラテン人には≪オラーティオ≫なる言葉が残っており、これは≪告発≫や≪弁明≫を表す。こうした神々への嘆願(アピール)が最初は単純で粗野な諸民族で行われた。[955]

・(つづき補遺 決闘と報復について)

・Talché furon una spezie di giudizi divini, nella barbarie delle nazioni, i duelli, che dovettero nascere sotto il governo antichissimo degli dèi e condursi per lunga età dentro

 le repubbliche eroiche. 神的な裁判なるものは、諸国民の野蛮時代では決闘であって、それは最古の神々による統治の下で当然生まれ、英雄たちの共和体制の中で長きに亘って続いた。[959]

(第三章 補遺 定型の裁判)

・I secondi giudizi, …furono tutti ordinari, osservati con una somma scrupolosità di

parole, che da giudizi, innanzi stati, divini dovette restar detta《religio verborum》;

二つ目の裁判が定型通りのもので、これは言葉に対する最高の細心さをもって執り行われる、神的な裁判から間もないため?いわば≪言葉の宗教(縛り)≫として残らざるを得なかった。[965]

・(人間的な裁判)

・I terzi giudizi sono tutti straordinari, ne’ quali signoreggia la verità d’essi fatti, a’ quali,

secondo i dettami della coscienza, soccorrono ad ogni uopo benignamente le leggi….

三つめの裁判はまったくもって定型外で、そこでは為された出来事の真実が君臨する、裁判では意識の命ずるがまま、誰にも役立つように法律{法文}を優しく救い出す…。[974]

Ⅺ.三種の時代性

 (宗教的な時代性、偏狭な時代性、市民的時代性)

・…de’ tempi religiosi, che si celebrò sotto i governi divini. 一つ目は、宗教的な時代で、それは神権政体のもとで繁栄する。[976]

・…de’ puntigliosi, come di Achille; ch’a’ tempi barbari ritornati fu quella de’ duellisti.

  第二は偏狭な時代で、たとえばアキレウスのころのように。また再起した野蛮時代にそれは決闘者たちの気風としてあった。[977]

  ・…de’ tempi civili ovvero modesti, ne’ tempi del diritto naturale delle genti, che, … nel

diffinirlo, dicendo《ius naturale gentium humanarum》; 第三は市民的あるいは中庸の時

代で、万民の自然法の時代、いわば≪諸民族の人間的な自然法≫に基づく時代性。[978]

Ⅻ.英雄的貴族政体の特徴から導かれるその他の証拠群

(序)[980]

・Così costante perpetua ordinata successione di cose umane civili, … la verità di questi

Princìpi. これまでの永遠で決まりきった人間的諸政体(cose umane civili)の継起は真実そのもの。

・Ma, per non lasciare verun luogo di dubitarne, la spiegazione d’altri civili fenomeni, …

    delle repubbliche eroiche. だが、何らの疑いをも残さぬため、その他の文明事象として、英雄的貴族政体についても説明しておく。

(第一章)

・… le due eterne massime propietà delle repubbliche aristocratiche sono le due custodie, … una de’ confini, l’altra degli ordini. 英雄的貴族政体の二つの永遠の大原則は、境界守るとと秩序{貴族社会体制or身分制度}を守ること。[981]

・La custodia de’ confini cominciò ad osservarsi, … con sanguinose religioni sotto i governi Divini, perché si avevano da porre i termini a’ campi, che riparassero all’infame

comunion delle cose dello stato bestiale. 境界の守備は、… 神的統治時代下の血塗られた宗教とともに始まり、それは土地に境界線を敷かねばならなかったからで、これが野獣状態での諸事物の破廉恥な共有に歯止めをかけたに違いない。[982]

・Ma, poi che, dissipata affatto l’infame comunion delle cose, furono ben fermi i confini

de’popoli, vennero le repubbliche popolari, che sono fatte per dilatare gl’imperi, e

finalmente le monarchie, che vi vagliono molto più. しかし、諸事物の破廉恥な共有がさ

っぱり消え失せてしまうと、人民の境界が確固たるものとなり、すると民主的共和政体が生まれ、それは支配権を拡げるためのもので、最後にはいっそう拡張に役立つ君主政体となった。[982]

 ・Questa e non altra dev’essere la cagione perché la legge delle XII Tavole non conobbe nude possessioni; … これが他でもなく、十二表法が裸の所有を認めなかった理由であるに違いない。…《dominii adiectio》と《dominii adeptio》???(根拠は法の変遷?)[983]

(第二章)

・La custodia degli ordini cominciò da’ tempi divini con gelosie …, acciocché indi

provenisse la certezza delle famiglie incontro la nefaria comunion delle donne. 秩序{貴

族社会体制or身分制度}を守ることは、嫉妬心とともに神々の時代から始まった、それは女性のおぞましい共有に対して家族{関係}の確かさを得るためであった。[985]

 ・Tale custodia è propietà naturale delle repubbliche aristocratiche, le quali vogliono i

 parentadi, le successioni, e quindi le ricchezze, e per queste la potenza, dentro l’ordine

 de’ nobili; こうした守護は英雄的貴族政体本来の特質で、そこでは親{親権}、相続者{相続権}、それに財産{財産権}つまりそうしたものを通じた特権が貴族層の中にとどまることを望んでいる。[985]

 ・Ma, essendo passato l’imperio da’ nobili al popolo, perché la plebe pone tutte le sue forze, tutte le sue ricchezze, tutta la sua potenza nella moltitudine de’ figliuoli, s’incominciò a sentire la tenerezza del sangue, … が、貴族から人民に支配権が移ると、それは平民たちが自分たちの実力、あらゆる富、すべての権力を息子たちの多さにおいたからだが、すると彼ら{民衆}は血のつながりに慈しみを覚えだした。[994]

・Per l’umanità de’ tempi (ché le repubbliche popolari amano i figliuoli, e le monarchie

vogliono i padri occupati nell’amor de’ figliuoli), essendo già caduto il diritto ciclopico ch’

 avevano i padri delle famiglie sopra le persone, perché cadesse anco quello sopra gli

acquisti de’ lor figliuoli, gl’imperadori introdussero prima il peculio castrense per invitar

 i figliuoli alla guerra, … 人間の時代となると(人民の共和政体は息子たちを愛し、君主政体は父親たちが息子たちへの愛にかかりっきりになることを望むので)、もはや家父長たちが家族の一人ひとりに対してもっていたキュクロプス的な{巨人族的な}法は落ちぶれてしまっており、これは彼らの息子たちの獲得物に対してもさらに影響力の低下をきたし、皇帝らは当初徴用金{息子を差し出す手当のことで相続可能なお金}を導入して息子らを戦争にいざなった、… [996]

(第三章)

・La custodia degli ordini porta di séguito quella de’ maestrati e de’ sacerdozi, e quindi

quella ancor delle leggi e della scienza d’interpetrarle. 次には秩序{貴族社会体制or身分

制度}を守ることが、行政官や司祭らを守ることにつながり、さらに法律やその解釈の知識を守ることとなる。[999]

・Però noi qui ragioneremo della custodia delle leggi, siccome quella ch’era una massima propietà dell’ aristocrazie eroicheò onde fu l’ultima ad essere da’ patrizi comunicata alla plebe. われわれはここでも法律の守護について述べるが、これこそ英雄的貴族政体の特性となる原則なのだから、貴族層から平民層に伝えられるべき最後のものだったのだ。[999]

・Perciò Atene … andò prestamente alla libertà popolare, per quello che gli spartani (ch’

erano di repubblica aristocratica) dicevano agli ateniensià che le leggi in Atene tante se

 ne scrivevano, e le poche ch’ erano in Isparta si osservavano. だからアテネは早々と人民の自由に至ったわけで、それはスパルタ人(貴族的共和政体をとっている)がアテネ市民に対して述べている、つまりアテネの法律は多くが書きつけられるが、スパルタではそのごく僅かが遵守されるのだ、というわけなのである。[1000]

XIII. 前の政体から次に移りつつある国の共和政的な{気質}傾向から取られたその他の証拠

(第一章)

・Ma, per non trallasciare punto di dubbio d’intorno a tal naturale successione di Stati

politici o sien civili, secondo questa ritruoverassi le repubbliche mescolarsi

 naturalmente, non già di forme (che sarebbero mostri), ma di forme seconde mescolate

coi governi delle primiere; … che, cangiandosi gli uomini, ritengono per qualche tempo

l’impressione del loro vezzo primiero. ところで政府というか文明国家の自然な移り変わ

りについて疑問のないようにしておくと、これに沿って当然ながら混合した共和政体が現れてくることになろう、それは形からしてではなく(見た目は同じで)、前の統治の仕方が幾分混ざったものとなろう。… すると、人々はだんだん変わっていくが、ある期間は前の習俗を保持することになる。[1004]

・Perciò diciamo che, come i primi padri gentili, … (onde Platone riconosce ne’ polifemi

d’Omero i primi padri di famiglia del mondo) … nel formarsi le prime repubbliche

 aristocratiche, … だから最初の氏族の父たちは、… (プラトンホメロスのポリュぺモ

ス{キュクロプス人}の中にこの世の最初の家父長たちを認めるが)、最初の貴族共和政を形成することとなり、… [1005]

  ・Ma, poi che esse plebi dell’eroiche città, divenute numerose ed anco agguerrite … ed

assistite dalla forza (ch’è la loro moltitudine), cominciarono a comandare leggi senza

autorità de’ senati, si cangiarono le repubbliche, e da aristocratiche divennero popolari:

ところでかの英雄都市の平民たちは、その数が増えさらに戦闘に慣れ、…力を得ることで(これは彼らの頭数による)、元老院の権威{後見人の役割}に頼らずに法律を制定し始めると、共和政体は変化をきたし、貴族的なものから人民的なものとなった。[1006]

・Ma, poi che i potenti delle repubbliche popolari ordinarono tal consiglio pubblico a’ privati interessi della loro potenza, e i popoli liberi, per fini di private utilità, si fecero da’ potenti sedurre ad assoggettire la loro pubblica libertà all’ambizione di quelli, con dividersi in partiti, sedizioni, s’introdusse la forma monarchica. ところで、人民的な共和政体の有力者たちは自分たちの勢力の私的な利益に向けて公的な{後見人としての}忠告を与えたが、その後には、自由な人民らが私的なもうけを狙いながらも有力者たちに巻き込まれ、その有力者たちの野心に彼らの{自由な人民の}もつ公的な自由を従属させられるはめとなり、党派に分かたれ暴動にさらされ、すると君主政体が導かれることになる。[1007]

(第二章)

・… perché nelle repubbliche libere per portarsi un potente alla monarchia vi deve

 parteggiare il popolo, perciò le monarchie per natura si governano popolarmente: …

Onde le monarchie sono le più conformi all’umana natura della più spiegata ragione, ….

… 一人の有力者を君主位に着かせる自由な共和政体にあっては、人民がそれを支えねばならないのであり、だから君主政体は自然と人民統治となる。… よって、君主政体はもっとも説明的な理性{をもつに至った段階}の人間本性に最適なのである。

(第三章)

・… Gian Bodino … che dispone le forme degli Stati civili con sì fatt’ordine: che prima

 furono monarchici, dipoi per le tirannie passati in liberi popolari, e finalmente vennero

 gli aristocratici. … Ma ci piace, ad exuberantiam, confutarlo dagl’impossibili e dagli

 assurdi di cotal sua posizione. … ジャン・ボダンは … 文明国家の政体をこう順序付けている、最初に君主国家があって、次に専制体制を経て自由な人民国家へ、最後に貴族政国家が来ると。… さて彼のこうした立場は不可能で馬鹿げているため、喜んで論駁しておく。[1009]

XIV. こうした諸国民のたどる過程が確かだとする最後の証拠

・(刑罰、戦争、数に拠る整序)

・(補遺 古代のローマ法はまじめな詩歌であり、古代の法律家の精神{意図するところ}giurisprudenzaは厳格な詩作であった、その只中で形而上的法{具体性を超えた法≒抽象的な法}の最初の洗練が起こり、ギリシア人において法律群から哲学が生まれた。)

 2.La lettura sincronica 共時的読み (o la lettura al piacere あるいは好き勝手に)

【《Imaginative universals》について】

Q: 想像的普遍から抽象的で知的な思考がどのように生まれてくるのか?

・Vico contrasts the idea of imaginative universals with “intelligible universals,” generi intelligibili or universali intelligibili. The first two ages of the storia ideale eterna, the age of gods and the age of heroes, are typified by the thought of imaginative universals, by the thought of fantasia. The third age, that of men, is typified by the abstract thought of intelligible universals, the logical concepts of genus and species. (p.66)

 

・This conception of an original mentality that ordered experience in terms of imaginative universals is the “master key” (la chiave maestra) of this new science. (p.66)

 想像的普遍のことばで経験を整序した原初の精神という捉え方が新しい学の親鍵となる。

・Croce regards the imaginative universal as the great error of Vico’s thought. Although he carefully presents many features of the imaginative universal in an illuminating analysisi he believes that the imaginative universal contains an unmediated contradiction in which the imaginatively intuited particular and the rationally universalizing concept are not brought together. (p.68)

 クローチェはこの想像的普遍をヴィーコの思考における重大なミスと見なしている。…クローチェの信ずるところでは、この想像的普遍は調停不可能な矛盾を含んでおり、そこでは想像的に直観された特殊と理性的で普遍的な概念とが同時に生み出されはしない、とする。

・I wish to discuss the imaginative universal from three perspectives: (1) as a theory of concept formatiuon, (2) as a theory of the metaphor, and (3) as a theory of the existential conditions of thought.… (p.69)

 わたし(D.F.Verene)としては、この想像的普遍を三つのパースペクティブから議論したい。一つは概念形成理論、二つ目はメタファー理論、三つ目は思想の実存的諸条件理論(?)としてである。

【[943-46]… a tre sorte d’autorità de’ senati】

Q: 元老院でも三種の権威の変遷があるようだが、ラテン語表現の変遷とどう係るのか?

【[1003] Macchiavello nella magnanimità della plebe]】

Q: ヴィーコマキァヴェッリの比較の視点は?

・『ローマ史論』(第二巻 第一章)ローマ人民が広大な版図を確保したのは、実力(virtù)によってか、それとも運(fortuna)がよかったためか。

【★[1027-]come a’ greci dalle leggi uscì la filosofia】

Q: なぜギリシアから理性的な哲学的思考が出てくるのか?

 

参考文献:

Leonardo Amoroso, Lettura della Scienza nuova di Vico, Lezioni di filosofia UTET, 1998

Donald Phillip Verene, VICO’S Science of Imagination, Cornell University Press, 1981

Croce, La Filosofia di G.B.Vico, Laterza, 1965

Giambattista Vico, Opere, a cura di Andrea Battistini, tomo I, II, Aenoldo Mondadori, 1990 (I Meridiani)

以上、できているところまでだが、こういう表示でまとめの意味や意義が見る人々にわかるだろうか。(つづく)