Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

発表を終えて気づいたこと(11/30ヴィーコ発表後)

 忘れぬ前に、発表後に「ああそうか」と気づいたことを列挙しておこう。

 「7章 三種の法制度」のところで、il certoとil veroが出てきたところ。すなわち、Talché le giurisprudenze divina ed eroica si attennero al certo ne' tempi delle nazioni rozzeò l'umana guarda il vero ne' tempi delle medesime illuminate. 神々と英雄的な法体系は粗野な諸民族の時代には確実なもの(il certo)に関係し、人間的な法体系は、知に開かれた{啓蒙された}諸民族の時代には真なるもの(il vero)に関係する、というところ。そうか、verum-certumの思考と、verum-factumの思考の二つがあるのか、つまるところヴィーコが描いて証明してみせようとしているのは、この二つの基軸となる思考なのだ、これをクローチェは神話(il mito)と詩作(la poesia)と言っていて、D.P.ヴェリーンはともに創造的普遍universali fantasticiから導かれるものとヴィーコから読み解こうとするのに対して、クローチェはそこに矛盾を認めて、神話は特殊(il particolare)を求めるのに対して詩作は概念(il concetto)を求めると指摘したということなのではなかろうか。

 端的にまとめよう。三つの時代区分すなわち神々の時代、英雄の時代の思考は実なるもの(il certo)が解となる、私の思いついた訳し方でいけば「il certoは、腑に落ちるもの」なのだ。だから肉体と精神とがまだ未分化な半人間たちの、いうなれば肉体の思考に当たる。一方、人間の時代の思考は真なるもの(il vero)が解となる。理性が自立し事柄の{つまり対象の}原因と結果が論理的に導ける、いうなれば頭脳の思考である。んー、アンダーライン部分の表現が苦しいなぁ、もっとうまい表現がないかと今まさに思い悩むが出てこない。先に進もう、この本文を書きつけて残しておこうと思ったのはそんなことじゃなくて、D.P.Vereneが想像的普遍を重要視するなら、クローチェは第二巻の詩的知恵la sapienza poeticaを重視する、かな?。ヴィーコ自身はこの辺をどう乗り切っているのかは、せっかく読んできたのだが私にはまだよく分からない。

 あとgiurisprudenzeだが、「法賢慮」何のこっちゃ?、と思ってしまう。大岡裁きじゃないが、「手綱さばき」、「頃合い」、「按配」、「手加減」、「沙汰加減」、要するに白黒つけるバランス具合を言うのだろうが、何か適訳はないものか。確かに発表会場で指摘を受けたように、「法体系」や「法制度」では現代に引き付けすぎているだろう。現代なら大学のla Facolta di giurisprudenzaが法学部だ、ここの法律は leggiなので、具体的な法律をそれとして成り立たせる土俵というか環境というかOSというか、そういうものなのだろう、その環境にも三種があるとヴィーコは述べている。

 さらにD.P.Vereneが重視する「想像的普遍」が英語では imaginative universalsだが、イタリア語では4つほどあるとどこかに書いてあったが何だったっけ。今、D.P.VereneのVico's Science of Imginationのp.65に、caratteri poetici, generi fantastici, universali fantasticiが同じような意味で使われているとして、ヴィーコ自身が学の要素Elementsのところで、"poetic characters" や"imaginative genera"を"imaginative universals"と結びつけている、としている。

 クローチェの批判というか論点は何なのだろう、真、善、美、利益の4象限のどこに上記の野獣や英雄たちの思考は位置づけられるのだろう。

 あとAmoroso氏の指摘箇所941のところの、tripartizioneは畢竟bipartizioneという注釈の典拠はA.Battistini氏にあるとのことだったが、その論述箇所はどこなのだろう。すぐ見つかると思ったのに、…(一応、ここまで)