Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

Vico発表のまとめ-11月30日2019年に向けて-

 最初に、一番最後の例の口絵を見ておこう。作者名は誰だったっけ。二枚あるのだが、一般的な図柄の方から。左上隅に三角形で囲まれた目があり、そこから光の筋が地球儀の上に乗った形而上学の女性像の胸元に当たり、光はそこで折れ曲がり左下の老人の背後へと消える。この老人が諸民族のホメロスを意味し、そこからオール、文字盤、束で巻かれた斧とサーベル、財嚢、秤にヘルメットと地上に並ぶあの絵のことである。神々の時代、英雄の時代、人間の時代、この三つの時代区分は本書『新しい学』の中で金太郎飴のごとく何度も何度も繰り返されるのだが、これらの時代区分と図像との照合がどうも誤っていたようだ。以前は、単純に最初の天上からの光の筋が神々の時代、こめかみに耳のはえ形而上学像の胸からホメロス像までの光の筋が英雄時代、ホメロス以降が人間の時代と思い込んでいたし、最初の頃の発表ではそう説明もしたはずであるが、どうも違うな、少しズレているように見た方が本文の書きっぷりに合っているような気がする。最初の逆「く」の字の真ん中あたりまでが神的時代、その真ん中からホメロス像を経由して文字盤を過ぎたあたりが英雄時代、そこから地面に置かれたもろもろ、つまり繰り返すと束で巻かれた斧とサーベル、財嚢、秤にヘルメットあたりが人間の時代となろうか。

 さてそう押さえた上で、第四巻の話は何をどのように展開しているのであろうか、これを考えて短くまとめておこう。本巻は第十四章からなる。今回は最終章が未達である。一読後の感想ではこの最終章はさらにそれまでの第一章から第十三章までのさらなるまとめ直しになっていて、ちょうど第四巻の読める要約になっている気がした。それはさておき、取り上げられる題材は、1.自然状態、2.習俗、3.自然法、4.政体(政治共同体)、5.言語、6.文字記号、7.法制度(法賢慮)、8.権威、9.法的道理、10.裁判、11.時代性であり、どの題材にしても上記の三つの時代の変遷が貫徹しており、逆に言うなら三つの時代に応じてここに挙げたどの題材も三つのパターンを有することがくどいほど述べられている。第十二章以降は、とくに古代ローマ史からやはり三つの時代区分が貫徹していることが例証として取り上げられている。(はっきり言えば三つの時代を経めぐることしか述べていない、と読めるので多少つまらない!)

 ではレジュメの最初のページに移ろう。全体は1と2章から成る。1が本文に沿った要旨、2が興味関心を引くテーマで掘り下げられればとの思惑であった。

 本文第一章は、第一巻から第三巻までのこれまた振り返りである。第一巻は本書で扱う学の原理を確立とあるから、単純にあの宗教、婚姻、埋葬のことか。第二巻では詩的知恵sapienza poeticaを通じて、われわれ文明人とは遠く隔たった野獣と英雄たちの思考をたどり(fantagiaと四つの比喩?)、神事と人事の起源を探究・発見した。第三巻は真のホメロスの発見と題され、ホメロス作とされる二大叙事詩オデュッセイア』と『イリアス』がギリシア民族の自然法の二大宝庫であり、ラツィオの民族にとっては「十二表法」がローマの人々にとっての自然法だったことを突き止めた、としている。

 そしていよいよ第四巻となる。「哲学と文献学の光に照らし」、「永遠の理念的な歴史から導かれた公理Degnità」<神の摂理provvedenzaに従いながら、諸国民のたどる過程を示すのが本巻の中身らしい。Filosofico-filologicoとla storia ideale eterna<la provvedenzaはそれぞれどのような相互関係に立っているのであろうか。今思いついたが、神々の時代、英雄時代に分け入るにはfilologiaで、それを現代につまり人間の時代に翻訳・解釈するにはfilosofiaでなければならず、ただしこの三つの時代の過程corsoは神の摂理としてそこからズレもはみだすこともない、というわけなのか。本文915の末尾にもあるとおり、こうした三種のまとまり(おそらく三種に形態)は、「すべては普遍的な統一に導かれ」、これをヴィーコは宗教の統一、精神の統一と言っている。そういえば本書は文明神学とも原理か方法のところで書いてあった気がする。(ここで独白だが、文明神学としてここに対象化できるのであれば、これはもはや文字通りの神学ではなく、神を通じて自らの歴史を展開する精神そのものの学ということにもなるのではなかろうか、つまり奥義は知性(哲学)により紐解かれたのでる、ヴィーコにとっては。)