Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

人称代名詞は曲者

君主論』の献辞は次の文章から始まる。

(1) Sogliono el più delle volte coloro che desiderano acquistar grazia appresso uno principe farsegli incontro con quelle cose che infra le loro abbino più care o delle quali vegghino lui più dilettarsi; donde si vede molte volte essere loro presentati cavagli, arme, drappi d'oro, pietre preziose e simili ornamenti degni della grandezza di quelli.

 ふつうほとんどの場合、とある君主の恩顧を得ようと望む者たちは、自身でそれは大切にしているか、あるいは主(あるじ)がより気に入ってくれそうな品々と共に拝謁に臨むものだが、そこでは多くの場合、主(あるじ)らに馬、武器、錦糸、宝石類や彼らの威光にふさわしい装飾品が奉納されるのを目にします。

 まあこんな調子なのだが、イタリア語原文に代名詞が多いのはこの先思いやられるばかりだ、つまり誰を、何を表しているのか、頭と理屈でしかアプローチできない者には珍訳が並び立ってしまうからストンと腑に落ちずに迷いが増幅してしまう。いかん、0時をまわってしまったので、英訳参照と珍訳の例示はまた明日としよう、ブオナノッテおやすみなさい。

翌日の追加:上記原文の下線を施した人称代名詞はlui(彼は)、loro(彼らに)の意味なのだが、生真面目に読解しようとするとlui(彼)とloro(彼ら)は単数複数で区別されるからそれぞれ指しているものが違う!と最初は思ってしまう。すると後者のloroは「とある君主の恩顧を得ようと望む者たち」を受けているなどと解釈すると、ある君主にすり寄ってくる面々に君主の側からその威光を示すがごとくに馬や武器や錦糸や宝石やそれに類する宝飾品が贈られる、といった珍訳も悪くないような気がしてくる。だから歴代の実に多くの校閲者たちの注釈が貴重なのだ、と今更ながら納得する。

 マンスフィールド・ジュニアの英訳注ではこうだ。「マキャベリのよくやる手で、単数から複数へのスウィッチ」と。私なりに敷衍すると、一人のある君主に献上品を持参して良好な関係を取り結ぼうとする多くの輩をズームでありありと描き始めるや、ーおそらく具体的な顔々が浮かんでいるのだろうー、すると一転その視点はパノラマ化して「君主連中といった者たちにはこんな贈り物がどんどんもたらされる」、とマキャベリは一般論へと移る。彼の視座や視角、これについていくのが難儀そうだな。

 ペトラルカ研究で著名なDotti教授の親しみやすい注釈では、残念ながらこの代名詞に関する指摘はなかった。