Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

相手の立場からも見る2.2.2019

 マキャベリの視点・̻視角のその二、風景画家になぞらえて。

 (5) Né voglio sia imputata prosumptione se uno uomo di basso et infimo stato ardisce discorrere e regolare e governi de' principi; perché, così come coloro che disegnano e paesi si pongono bassi nel piano a considerare la natura de' monti e de' luoghi alti e, per considerare quella de' luoghi bassi, si pongono alto sopra ' monti, similmente, a conoscere bene la natura de' populi, bisogna essere principe et, a conoscere bene quella de' principi, conviene essere populare.

 身分も低く卑しい男が敢えて君主の政治を議論し規則立てているとして、僭越でけしからんと思われたいわけではありません。なぜなら風景を描く人々は、山々や高台の自然を考察するのにちょうど平地に身を置くように、また低地のそれを十分考察するには山々の上高くその身を置くのと同様に、人民の本性をよく知るには君主である必要があり、また君主らのそれをよく知るには人民であるのがふさわしいのです

 前回指摘したマキャベリの視点・視角の時間軸に加えて、階層軸というか立場上の違いというか、具体的には君主の立場から見えるであろう世界と人民側から見える世界を押さえながら政治の風景を描き出していく、との宣言文でこれまた有名な箇所だ。基本的にマキャベリの言説はこれら二軸で回っていくとみて良いのだろうか。この点が釈然としないのだが、私の個人的な感覚からするともうひとつ軸があると思われる。これは『戦術論 Dell'arte della guerra』をザーっと読み終えて抱いた第六感で、何と言ったらよいのだろう、表と裏、好悪、このましく見るか、悪意をもって見るか、写真でいうところのポジ、ネガだろうか、そうだな地獄からの視点と天国からの視点、こうした兎も角ももう一つの軸が想定されるが、それをこの『君主論』でも見つけられるかどうかがさらなる課題となるだろう。これだけ気が回るのだから苦労人なのだろうなマキャベリは私と違って。