Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

久しぶりの証し5.15.2019

 はてなブログの管理者側からのメール通知で、先回から何も書かない状態がひと月以上も続いたことに気づく。人間これだから困る。つまりブログを始めた最初の熱意が無意識のうちに、雑事に取り紛れて低下してしまったらしい、加えてそれすら自覚が無かったなんてマイナスだが、忘れることが誰かにとっては救いになることもある、今後も気づいたときに無理せず書き足すとしよう。

 ところで『君主論』の日本語訳はこの間に第14章まで進んだ。授業でよく使う第15、17、18、6、25章の5章分は、未完の『マキァヴェッリ・データベース』に蓄えてあるから、単純には全26章から14と5を引いてあと七章分に自分の日本語を当てはめるところまで来たことになる。コメントもその都度つけたし、二分法箇所もアステリスクとアンダーラインで明示したし、ともかくも続けることだ。

 思い出すにこんなこともやれたらと思いつくことがあった。つまり、既存の訳文との比較はもちろん、おもだったイタリア語版の校閲者の注釈の比較だ。何と言ってもDottiのがわかりやすい、手元にはIngleseの、Martelli大先生の、とこちらはSalerno社の国民版だが注釈が緻密膨大、出回った手稿本の相違まで克明に文献学的に突っ込んでいるから私には残念ながら扱いにくい、がもちろん参照はする。あと現代訳の一番最初となるMelograni版、Raffaele Ruggiero、この方はボローニャ大学出身で親近感がわく、あとやはり現代語訳版でMartina Di Febo女史のもの。

 既存の日本語訳と違うところが識別できて、ここはこう解釈しないと真意が通らない、などと主張ができれば楽しいだろう。前にも何度も記したが、マキァヴェッリの政治関連代表作三部を残すことができたなら、生きた証にはなろう、またそうすることで周りの人々にどういった貢献ができるものか、後者についてはこの歳61になってもしかと確かな手ごたえが言明できない、ここがわれながら不思議なところだ。つづく