Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

うさぎとかめ

 あれからはや一か月、いま「うさぎとかめ」の童謡の一節がメロディーとともに頭に流れているが、その「かめ」よりも歩みが遅くなったようだ。

 目標である『君主論』の訳出だが、もっか第十九章の3番目の段落までが終わった。ということはあとこの章の残りと、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と第25章は過去に訳出済みであるから、加えるなら最終章の二十六の、つまるところ合わせておよそ七章分を日本語にすれば私の訳文で本書が鑑賞可能となる。

 つい先日、お世話になっている本屋の親爺さんから岩波新書の『マキァヴェッリ ―『君主論』をよむ』(鹿子生浩輝著)を届けてもらった。帯には「何百年ものあいだ誤解されてきた男 その言葉の意味をいま解き明かす」とあるではないか、あー考えている人はちゃんといるのだな、大いに先を越されてしまったけれども、私自身の『君主論』の訳出が終わるまでもう少し待ってもらおう、そうでないと原文の解釈にブレが発生してはいけないから、ひととおり自分の目でテキストを確かめてのちに、『君主論』を中心とする対話を楽しむとしよう。1527年の「サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫略)」後にもマキァヴェッリが仕官の可能性を追い求めてフィレンツェ政庁に立候補までしていたとは知らなかった、少しずつでも新しい知見が積み上げられていることを痛感する。さあいつものことながら、前期の中間成績付けを早く済ませていよいよ残りの七章分と向き合う時間をつくろう、かめよりおそいとなると何の動物が似合いなのだろう、体温が上がるまでじっと動かぬイグアナか。