Intra-muros’s diary

はじまりは饗宴から

再起をかけて9月13日2019年イタリアはピサにて―その三ー

二日空いてしまった。これはその二のつづきである。

明治の最初に、スピノザ流の、そしてルソーにも及ぶ「反面教師としてのマキァヴェッリ」理解が植え付けられたとすれば、それはやはり日本におけるマキァヴェッリ受容の特徴であろう。時代は下って、昭和の戦争にひた走るさ中の確か昭和15年、大山論文というのがあって、大山郁夫氏だったか陸軍のそれなりの人物だが、その論文中に<倫理や道徳からマキァヴェッリに対しての激しい論難は生じていない」といった内容があることを、これまた佐々木氏の前掲書が教えてくれていたと思う。これは注目してよいのではなかろうか、日本ではマキァヴェッリの言説が道徳的あるいは倫理的な非難を日本ではこれといって巻き起こさないという指摘はおもしろい。遠く離れた欧州の他人事なのか、翻訳の問題なのか、それともそもそも日本の読者層のメンタリティーと深層のところにおいて親和性があるのであろうか。意外に私個人としてはこの三番目の可能性が証明できないかどうか興味関心がある。(急に頭が働かなくなったので続く…)

再起をかけて9月13日2019年イタリアはピサにて―その二ー

家事のため中断、そして今またつづきを始める。前の記事の最後が1998年『マキァヴェッリ全集第一巻』刊行だった。今も現役の『君主論』というと、池田訳に加えて佐々木訳、河島訳がある。それぞれの刊行年を今ネットで調べてみたが、佐々木訳が1994年、河島訳が1998年とある、感覚的にはもっと古い気がするのだが、現物をあとで見てみよう。この作業中に思わぬ発見があり、あの重鎮、野上素一氏の『君主論』が筑摩の世界文学全集のルネサンス編所収とあった、全訳だろうか、これは思わぬ落とし穴だった。となると1960年代以降で『君主論』と銘打った図書は何点ほど出回っているのだろう、学術にかぎらず広くビジネス向けやはてはマンガにまで視野を広げると何点ほど上がってくるのだろうか。以前2010年のボローニャ市カルドゥッチ邸での「戦争と文学」の発表用に準備した年表では、池田訳の『君主論』が明治19年の『君論』から数えて十番目の翻訳ということ表す⑩の記号が付いているのだが、これはどこを見て作ったのだったかなぁ、京大のイタリア学関連の文献目録だろうか、これも定かでない。

 さて最初の出会いの『君論』と『經國策』について。…といって前に戻るが、今思い出したのだが、原典からつまりイタリア語テキストをともかくも読んで日本語に移したのはどうも昭和15年(1940年)の大岩誠氏あたりからであろう、それ以前は英訳、仏語訳、独訳?を参照している、との記載が出てくる。それでは話を戻して、かの二つの翻訳はどのようにマキァヴェッリを読者に紹介しているのだろう。イタリア語で下記のコメントを付けてみた。

Il Discorso sul principe (①君論[Kun ron] ) è probabile che fosse dedicato direttamente all’Imperatore e ai suoi seguaci per imparare i comportamenti acuti e penetranti, mentre Il Modo di governare lo stato (②經國策 [keikoku - saku])non per i governatori ma i cittadini colti di quel tempo. Comunque tutte le due edizioni sono state tradotte dai testi in inglese.

日本語にすると、「『君論』はおそらくだが天皇ご本人宛それとその随員たちに毅然敢然とした振る舞いを習得するために、一方『經國策』は政府人向けではなく当時の教養ある市民向けのものであり、両著とも英語版から翻訳せられている。

こう書いているうちに、集英社『人類の知的遺産』シリーズの24マキアヴェッリ担当の佐々木毅氏の次の記述が私のノートにとってあったので、これもここで披露しておこう。「『経国策』につけられた後藤象二郎芳川顕正との序文は日本人の最初の反応を知る上で貴重な素材を提供してくれる。まず後藤象二郎によればそれは「剋戻狙詐操切群下之術」であり、「仁義道徳」に違背する点においてそれは申(しん)不害(ふがい)や韓非をも凌ぐほどである。しかしながらマキアヴェッリの人格高潔な有様を知るにつけても彼がなにゆえにかかる書を著したかは問題とならざるをえない。この点に関してはマキアヴェッリメディチ家の暴政に怒りを懐き、「専制為政」の憎むべきことを知らしめんとしたという解釈がある。このような解釈の当否はともかくとして今日人間がいよいよ策謀をめぐらすようになっている以上、この書は一般人と言えども「自警」のために知っておくべき事柄を記したものと考えられる、と。」(佐々木氏前掲書 pp.6-7)。

私が気になるのは、読めもしない「剋戻狙詐操切群下之術」という解釈であり、やはりそれは「術」つまり方策なのである。「…この書は一般人と言えども「自警」のために知っておくべき事柄を記したものと考えられる、…」ともあるので、最初から反面教師で日本の読者層には入っていったのではなかろうか。

また序文のもう一人の提供者である芳川氏から佐々木氏が次のように引用している。

芳川顕正は次のような序文を寄せている。この『経国策』(「一名君道」)は「民人」の「制御」や、「経営邦家之方術」を説いており、その議論は甚だ率直かつ大胆であってまさに韓非に類するものであって、その大胆不敵な主張は「形名者流」の唾棄するところである。しかしながらその小伝を読むにつけ、この書は民を「抑圧」する術策を説きつつも同時に民にそれに対して対抗する術を教えたものであることを知った。これこそが作者の「本心」に違いない。この書は古今の学説研究の上で有意義のものと思われる、と。」(佐々木氏前掲書 pp.7-8)。それともう一つ、「この両者{後藤象二郎芳川顕正}の反応はマキアヴェッリを法家との重なりで理解し、儒教的教養の立場からそれに対して明瞭に距離をおく点において共通している。・・・ところが芳川が『君主論』に対して学問研究の場以外における積極性をほとんど承認していないのに対して、後藤はそこに見られる議論を統治者から一般人にまで拡大し、それを処世術の次元で捉えようという姿勢を示している。これは一つの注目すべき対応である。」(佐々木氏前掲書 p.8)。私としてはひとつ前の引用から「経営邦家之方術」を、最後の引用箇所の「処世術」という紹介は注目しておきたいと思う。

 それでは只今から風呂に入る次第で、当日のプレゼンの流れのつづきはまた後日としよう。明治の最初から、マキァヴェッリスピノザ風に、つまり反面教師という受け取りで日本に消化されていったようだ。これはマキァヴェッリに限ったことではないのかもしれないが…。(またつづく)

 

再起をかけて9月13日2019年イタリアはピサにて

 前回から随分とまたしても時間が経過した。さて今回は、タイトルどおりに今年9月13日に予定されている私自身の研究発表について、その概要をここにまとめておこうと思う。

 第23回の国際会議で、今年の春だったかその通知をネットで受け取ったものだから、何を思ったのかこれぞ再起のチャンスとばかりに応募を試みた次第、以前にもマキァヴェッリの受容ということでまとめたLetteratura di guerra (戦争の文学)の論考をベースに、ほとんどここから進展がないため焼き直しをして、あと少しばかり現代のマキァヴェッリ関連図書を紹介して…などといった魂胆であった。

 国際会議ながら、その名称がいまいち判然としていない。23回目とあり、研究領域は文学と科学で、イタリア人の日本研究者がおもに集うらしいが、少しく日本人研究者が混じるようだ。当会議の募集のためのタイトルを改めて見ると、Altro per me. Technologie e scienze umane: prospettive dal Giappone e dall'Asia orientale とあるから、どうなんだどう訳したらいいのかと言うと、私にとってのもう一つ、テクノロジーと人文科学:日本および東アジアからの視座???とのこと、自己自身にとってもう一つの、言葉を足してもよければ技術と人文科学の関係についての第三の視座を日本ないし東アジアから、という解釈でよいのだろうか。少なくとも人文科学系からの物言いでいけば、これぞ正解というものがないのだから言語を通じて感じ取り理解したそれぞれの受け取りで会議に臨むしかない、他方科学やテクノロジーの方は共通理解のツールが数学をベースに出来上がっているからさほど理解のブレはなくなるのだろうと推測するのだが、これもどうだろう、科学者や技術者次第なのだろう。最初のパンフレットを見ていたら、Il panel intende proporsi come il secondo appuntamento ADI di un gruppo di studiosi italiani interessati a tematiche relative alla cultura giapponese… とあるが、パネルの意図はイタリア人研究者で日本の文化に関連するテーマに関心のあるグループのADIの二度目の会合のようだが、ADIとは何の略だろう。

 これは事後に報告するとして、本題の私の準備している発表の概略を示そう。テーマは、La fortuna in Giappone delle opere politiche di Machiavelli 日本におけるマキァヴェッリの政治関連著作の受容、となる。スライドつまりパワーポイントで15分以内でまとめなければならない。タイトル画面には、1998年のマキァヴェッリ全集第一巻の表紙部分を入れ込んだ。目次は5項目、1.イントロダクションとして今年つまり2019年5月1日から元号が令和に変わったことからスタートしよう。なぜなら去年がちょうど明治150年で、そういう視点から見れば、つまり幕末の黒船以来、西洋の餌食となるまいと天皇を中心に明治時代が始まり、日本は近代化の道をひた走ってきたわけだが、その150年のなかでマキァヴェッリはどう読まれてきたのだろうか、これが今回の発表の前半部の問いかけである。

 令和の出典は漢籍から初めて万葉集となった。元号つまり年号でいうと248番目、明治になってから天皇ごとに元号が定められるしくみとなっている、そういえばそれ以前は節目節目で年号を変えていたようだから、二百を超えることになる、一世代30年だから、300×200で6000、六千年を超えることになってしまうから昔は政変、災厄、飢饉等、何かと名称変更を求めたのだろう、ところで年号の最初は紀元後615年の大化の改新の大化である。「ナカノ オオエノ オオジ」で変換しても漢字にならないなぁ、そもそもこの名前の人物が関係していたっけ、天智天皇からだったはずだ。ともかくも、明治の45年(1868-1912)、大正の15年(1912-1926)、昭和の64年(1926-1989)、平成の31年(1989-2019)と続いて、去年2018年が明治元年から数えて明治150年、この流れの中で西洋古典文献の中でもマキァヴェッリはどう日本人に受け止められてきたのか。宮川先生の歴史区分にあやかろう。明治時代から日本は終戦後の1960~70年代にかけて、三度の西洋への傾斜とその反動としての三度の日本への回帰を繰り返してきた。具体的には、西欧化が明治時代前半、大正期から昭和初期、第二次世界大戦後の十数年、反動期が明治の後半、昭和の軍国主義化、1960~1970年代となる。

 マキァヴェッリとの最初の出会いは、明治19年、西暦でいう1887年8月、Il Principeの訳本である『君論』と『經國策』からだ。前者は天皇に向けて訳され、後者は学者連中や向学の自由人に読まれたようだ。何という奇遇か、原本の方も禁書目録に入れられていたが、1553?年フィレンツェのジュンティ社とローマのブラードからIl Principeが同時に出ている、単なる偶然なのだろうか。国粋化傾向が強くなる明治の後半にはさらなる『マキアヴェリー經世策』が桐生政次、新聞人のあの桐生悠々の訳文で出ている。この頃、林薫訳の『ローマ史論』がはじめて世に出る。

 第二の西欧化の時代に、また立て続けにIl Principeが橋田東聲訳と吉田&松宮訳で、今気づいたことだが、わずか三年の差とはいえ、大正期においても二種類の翻訳が相次いで出ていることには何かわけでもあるのだろうか。この時期、L'arte della guerraの最初の翻訳が廣田氏訳によって大正9年1920年)に出版されている。

 第二の右傾化、つまり昭和の後半から戦争そして敗戦にむけての時期に、5年の差があるが黒田氏訳の『君主論』と多賀善彦(大岩誠)訳の『君主論』(こちらは選集の中の第一巻として)が出ている。

 第二次世界大戦の敗戦後の十数年の間には第三の西欧化、アメリカ化で、日本の戦後復興目覚ましいさ中であり、1960年の日米安保条約締結後に、またしても第三の日本への回帰が始まる。この1960年代から、現代まで底本となっているマキァヴェッリの翻訳本が刊行される、『君主論』は1966年池田訳で、『政略論』も同じく1966年永井訳で。また1970年には、浜田訳『戦術論』が世に出ている。ところで佐々木訳は、河島訳は、塩野氏のマキャベリ関連本は、いつ頃出ているのだろう。

 そしてたしか石上良平氏の遺言となっていた日本におけるマキァヴェッリ全集の刊行が、筑摩書房から、1998年10月始まる。(8/22つづく)

ああ気ぜわしや

 先回からまた一月ばかりが経過した、これをどうして知るかと言えば、メールで「はてなブログ」事務局から「そろそろ書きませんか」という指摘を受けるからだ。そういえば先週受け取ったと今思い出して、こんな按配に。

 9月はピサにて発表する機会を得た、このタイトルがイタリア語で長いのであとでパンフに当たってから記すことにしよう。かれこれ9年前かな?、それぐらい前にコリアンダー・シリーズ『戦争と文学』の中に入れてもらった「Un caso particolare-日本におけるマキァヴェッリの『戦争の技術』の受容」を修正して、再度「マキァヴェッリの受容」をまとめて向こうで発表できれば、という考えである。PowerPointで準備して、まお15分というところで纏めておくのがよかろう、焦るな、明治19年マキァヴェッリと日本の読者の最初の出会い、それも本国のGiunti社、Blado社と同じく、わが国でも同時に二種類の『君主論』の翻訳が出ている、なぜなのだろう。恩師宮川先生の説くところによれば、明治から1970年まで三度の欧化解放と逆の自文化への回帰(引きこもり)が繰り返しおこったと見なしてよいようだ。今回のPisa向けの発表の修正は、その1970年代以降のマキァヴェッリ受容の特徴を付加して厚みを増したいと案じているわけで、早く資料を収集整理せねば。あとはいつもどおり、拙訳『戦争の技術』におけるテキストの分りずらいところをうまく抽出して、若手のイタリア人研究者たちに解題してもらえるような機会を得られれば、次の改訂に向けて弾みがつくというものだ。いつも思い浮かぶのは、第六巻のあれだ、軍規を破った仲間の処罰に関するところ、その仲間の支持に大勢を向かわせないための最大の対処法は、その当人の仲間を裁定者にすることだという、なぜならと続いて、確かその裁定者はaltroの配慮からどうしてもその違反者を処罰する方向に動くものなのだ、とテキストにはあるのだが、その原文中のaltroが何を指しているのか判然としない、「軍法に対する怖れ」なのか、「仲間同士のあつい友情」なのか、はたまた「軍隊を通して市民化された人間の自己保身」を指摘しているのであろうか。釈然としないまま日本語に落としてしかもそれが活字になっていると、どうにも落ち着きがよろしくないのである。

そうだ、他の日本語訳ではどうなっているのだろう、それも当たろうとして先週金曜は研究室を後にしたことを今思い出した次第である。

突然だが、この8月でパスポートも切れる!えらいこっちゃ。つづく。

うさぎとかめ

 あれからはや一か月、いま「うさぎとかめ」の童謡の一節がメロディーとともに頭に流れているが、その「かめ」よりも歩みが遅くなったようだ。

 目標である『君主論』の訳出だが、もっか第十九章の3番目の段落までが終わった。ということはあとこの章の残りと、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と第25章は過去に訳出済みであるから、加えるなら最終章の二十六の、つまるところ合わせておよそ七章分を日本語にすれば私の訳文で本書が鑑賞可能となる。

 つい先日、お世話になっている本屋の親爺さんから岩波新書の『マキァヴェッリ ―『君主論』をよむ』(鹿子生浩輝著)を届けてもらった。帯には「何百年ものあいだ誤解されてきた男 その言葉の意味をいま解き明かす」とあるではないか、あー考えている人はちゃんといるのだな、大いに先を越されてしまったけれども、私自身の『君主論』の訳出が終わるまでもう少し待ってもらおう、そうでないと原文の解釈にブレが発生してはいけないから、ひととおり自分の目でテキストを確かめてのちに、『君主論』を中心とする対話を楽しむとしよう。1527年の「サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫略)」後にもマキァヴェッリが仕官の可能性を追い求めてフィレンツェ政庁に立候補までしていたとは知らなかった、少しずつでも新しい知見が積み上げられていることを痛感する。さあいつものことながら、前期の中間成績付けを早く済ませていよいよ残りの七章分と向き合う時間をつくろう、かめよりおそいとなると何の動物が似合いなのだろう、体温が上がるまでじっと動かぬイグアナか。

久しぶりの証し5.15.2019

 はてなブログの管理者側からのメール通知で、先回から何も書かない状態がひと月以上も続いたことに気づく。人間これだから困る。つまりブログを始めた最初の熱意が無意識のうちに、雑事に取り紛れて低下してしまったらしい、加えてそれすら自覚が無かったなんてマイナスだが、忘れることが誰かにとっては救いになることもある、今後も気づいたときに無理せず書き足すとしよう。

 ところで『君主論』の日本語訳はこの間に第14章まで進んだ。授業でよく使う第15、17、18、6、25章の5章分は、未完の『マキァヴェッリ・データベース』に蓄えてあるから、単純には全26章から14と5を引いてあと七章分に自分の日本語を当てはめるところまで来たことになる。コメントもその都度つけたし、二分法箇所もアステリスクとアンダーラインで明示したし、ともかくも続けることだ。

 思い出すにこんなこともやれたらと思いつくことがあった。つまり、既存の訳文との比較はもちろん、おもだったイタリア語版の校閲者の注釈の比較だ。何と言ってもDottiのがわかりやすい、手元にはIngleseの、Martelli大先生の、とこちらはSalerno社の国民版だが注釈が緻密膨大、出回った手稿本の相違まで克明に文献学的に突っ込んでいるから私には残念ながら扱いにくい、がもちろん参照はする。あと現代訳の一番最初となるMelograni版、Raffaele Ruggiero、この方はボローニャ大学出身で親近感がわく、あとやはり現代語訳版でMartina Di Febo女史のもの。

 既存の日本語訳と違うところが識別できて、ここはこう解釈しないと真意が通らない、などと主張ができれば楽しいだろう。前にも何度も記したが、マキァヴェッリの政治関連代表作三部を残すことができたなら、生きた証にはなろう、またそうすることで周りの人々にどういった貢献ができるものか、後者についてはこの歳61になってもしかと確かな手ごたえが言明できない、ここがわれながら不思議なところだ。つづく